『脳男』感想

 新年2冊目は首藤瓜於作『脳男』にした。最近本棚が小さくて収まらないから、まだ読んでいない本を床に積みあげている。その一番上にあったのでこれにした。読み終わってから知ったんだが、これ実は続編があるらしく読了後Amazonでポチることになった。以前バリー・ライガ作『さよならシリアルキラー』だったかを読んだ時も同じことをしていたんだから、いい加減間違わないでほしい。たいていタイトルとあらすじで直感買いするからこういうことが頻発する。そして今回みたいにいや続きは〜〜〜?とムズムズするという失敗を繰り返している。

 

 それは置いておいて。あらすじは以下、裏表紙より引用。

 

 連続する無差別爆破共犯容疑で連行された謎の男。精神鑑定医鷲谷真梨子と刑事茶屋は知れば知るほど彼は無実だと確信する。超人的能力をもち、心を持たない男。生まれつき感情が欠落しているとしたら一体何者なのか。迫り来る真犯人、明らかになる衝撃の過去。スリリングな展開と先の読めない心理戦が秀逸。

 

全部読んだ後にこの説明見ると、結構ミスリードっぽいというか内容の展開を正確に追っているわけではないような感じがした。どうなんだろうか。この書き方だとまりこと茶屋がタッグを組んでいるようだが、全然そんなことなくそれぞれ勝手に調査しているし仲良くもなんともない、むしろちょっと反り悪そう。それから、その謎の男・鈴木一郎はめちゃくちゃメインというよりは、主にまりこの調査で段々素性が知れていく感じで直接本人が行為する場面はほぼ後半しかない。読者はだいたいまりこの視点から物語の展開を追っていくことになるので、全く得体の知れない男の情報が断片的に入ってくるという点では臨場感があると言ってもいいと思う。

 約400ページだが結構精神鑑定の専門用語が多く、情景描写だったり情報の説明だったりで文量とられている部分があるので読みやすいと言えば読みやすい。ただ一つ気になったのは、地の文が全部過去形。登場人物の感情表現や会話文以外本当にほぼ全部過去形で、ずっと淡々と進んでいく。この前に泉鏡花を読んでいたからあまりにもあっさりした文章で拍子抜けしたというか、文章を読むための文章というよりは物語を読むための文章だなといった印象だった。ただまあほとんどの推理小説は(物語内での)事実と論理の説明が重要だから、推理小説読む人にはあまり気にならないのかもしれない。

 さて、内容について考えると、感情のない人間というのは何か?という問題はとても興味深いし面白い。そもそも感情がないということはあり得るのか、あり得るならばそういう人間は生きられるのかといった疑問を改めて考えさせられる。

 その辺の動物だって何かしら感情を示す動き、いわゆる情動というものがある。心理学的にこの説明は適切じゃないかもしれないが、ようは情動とは、身体が刺激を受けて感情(最も原始的に言うなら快・不快の判定だろうか?)が生じ、それが身体に反応として現れることだ。怒ると血が上って顔が熱くなるとか、興奮すると瞳孔が開くとか、あんまり悲しいと涙が出るとか。制御しようと思って制御できるものではないだろうが、驚くことに鈴木一郎はそれが完全にコントロールできるらしい。よくそのへんのサイコパス気取りが「俺って感情がないって言われるんだよね〜!」とかほざいているがそれの比ではない。そもそもそういうことを他人に言っている時点でお前には自己顕示欲という立派な感情が備わっているだろ。

 それは置いておいて、感情はある種の生存本能ではないだろうか。本能という言葉は学問的に何も説明出来ていないということで最近は使われないが。ともかく快・不快の判定ができないものは、自身にとって都合の悪い状況を判断できないから回避しないし、そのせいで自ら淘汰されていくだろう。痛覚刺激なんか特に分かりやすい。例えば火を触って熱い・痛いという感覚が伝わればまず反射反応が起こり、それは極めて不快という判断に繋がる。だから火を直接触ることを避けるという行為に至るし、また今後も不快を減らすために同様の状況を避けるという経験・学習をする。失感情症という概念があるが、これはその名の通り感情がないのではなく、自分が抱いている感情に気づかない、認知できない、そしてそれゆえに感情の表現ができないという状態のことである。この場合でも確かに感情はあるはずなのだ。現に失感情症と言われる人々でも、彼らは生きている。本当に感情がないのであれば原始的な欲求、例えば食欲や排泄欲がない、あるいは希薄なのではないか。これは本文でも出ている例であるが、お腹が空いた・体内に不要物が溜まっているという身体刺激を不快であると判断できないのだから、そこから何かを食べる・排泄するという行為に繋がらない。

 最も広義では感情は生き物が生きるための自己命令の装置である。論理学をやっている友人がよく、人体はサプリとかでも必要な栄養を与えていれば十分機能するから機械だと感じられて嬉しい、生物は精巧なシステムなどと言っているが、まあ実際その通りなんだろうなと。そのシステムを動かす自己制御装置が感情だとすると、それがなければ動き出さない機械になる気がする。ちなみに鈴木一郎、生まれてから少年期はこの考察と同じように他人に命令されるまで全く動かない不気味な子供だったらしい。感情がないとその場限りの反射反応はあっても主観的経験や学習には繋がらないが、疑似的に感情を模倣することで学習システムを組み上げたようだ。今手元に本がないのでこの辺あやふや。ただ、それで大人になってからは常人同様の生活をできるようになったという。物語としては面白いが、個人的には本当か?という感じである。経験・学習は論理の発見の営みだ。経験則という言葉があるように、経験を積み重ねることで、ある事象とある事象がいつも同じ順に生じることに論理を見出す。機械は命令を実行することはできても、そこに論理性を見出すことはできない。論理記号に「ならば」、「〜の時」、「〜ではない」はあるが、「だから」はない。

 自己書き換えや最適化のコードが最初から与えられていないプログラムが、どうやって途中からそれを自ら獲得するのだろうか。完全に感情のない人間が、どうして感情のシステムを組み上げようとするだろうか。必要性の概念も好奇心ももたなさそうだ。そういえば『サマーウォーズ』に出てくるラブマシーンはAIに知識欲を与えたというが、『脳男』はその真逆だな。

 

 全体通して『脳男』という小説自体が面白かったというよりは、この小説で取り扱われるテーマが哲学的で考察が楽しかったという所である。作中で古代ギリシアの哲学者の引用が出てきたりするので、作者自身哲学的思索が好きか、それを扱って考察の余地を生む文章を書くのが好きかなんだろうな。先にも書いた通り、文章全体や推理自体はあっさりしているので、読み応えがないと言えばないかもしれない。そういえば映画にもなっているようだがそちらはまだ見ていない。感情のない人間を演じるってどんな感じなのだろうか。