『死んだレモン』感想

 半年以上前に買った積読を消化している。ここの所は時間があってもアルバイトや学業の不安が頭をよぎって本を読む気になれないということが多かったのだが、やっと春休みが来た。いや研究のための勉強をしなければいけないし、そろそろちゃんと文献読んだり語学やり直したりしないといけないんだけど。まあ多少余裕が生まれて最近は嬉しい。感想書いている本もあれば書いていないやつもあるが、だいたい紙で買ったものは書くようにしている。今回の感想はフィン・ベル作『死んだレモン』である。推理小説なのでネタバレ多いと思う。

 

 主人公は30も半ばを過ぎた男、フィン・ベル。仕事はうまく行っており家庭もあったが、心のどこかで虚無を抱いておりいつしか酒を煽る日々を送っていた。妻との関係がだんだん悪化する中で酒気帯び運転をし事故を起こして下半身不随となってしまう。破れかぶれになったフィンはニュージーランドの南リヴァトンのコテージを買い、そこに移住することにした。だがそのコテージでは、26年前に住んでいた少女とその父が失踪するという未解決事件が起こっていた。コテージの近くに住むゾイル家の三兄弟はどこか不気味で、フィンは彼らを疑いながら自身の住むコテージの事件について調べ始める。

 大まかなあらすじはこんな感じだが、これは物語を時系列に沿って説明しているに過ぎない。本文では主人公フィンは冒頭から崖で宙吊りになって死の危険を迎えている。この現在軸と、コテージに移住を始めた約6ヶ月前からの経緯を交互に織り込む形で話が展開していく。まさに今危機の最中にいるこの瞬間の緊張と、ニュージーランドのアットホームな町での日々の安らぎの差が物語全体の緩急を強めており目が離せなかった。そうして現在と過去を反復横跳びしていくうちに、最後にはそれが重なって物語としても推理としても一つの糸にまとまっていくような感じがたまらなく気持ち良い。また、過去といっても現在から振り返ったところの過去という回顧録の体ではなく、あくまでその時点での現在としてフィンの一人称で文章が進められるので、ある種二つの現在を見ているようでそれぞれにフィンのリアリティがある。それが最後に「たった今」に繋がるという所が個人的にすごく面白いと思うし醍醐味でもある。こんな感じに過去と今が繋がる形式でいうと、中学か高校かの頃に読んだ歌野晶午『絶望ノート』を思い出したが、これも当時大層衝撃を受けた小説だった。

 内容面についていうと、私はフィンに共感する面が多くあって読みやすかった。フィンは生活そのものには不満はないはずなのに不眠に悩み酒に逃げ、その結果として車いす生活となりニュージーランドへと逃避する。自暴自棄になり過去への後悔を強く抱き、どうしようもないながらリヴァトンの温かな人々と交流していくことで、少しずつ真人間に近づいていく。ただこのリヴァトンの人々との交流に際して尻込みする所が共感ポイントである。リヴァトンの町の人々はニュージーランドの民族マオリ族の人々であり、皆誰かしら親族の繋がりがあるような田舎らしい小さな町だ。心優しくアットホームであるが、その一方田舎特有の無遠慮とマオリ族でない人への距離感が併存している。フィンは飲酒生活や事故のことで精神的に不安定な状態であるため、リヴァトン移住後この町に住む高齢女性ベティのカウンセリングを受ける。このベティという人、田舎の高齢者によくある押しの強さや、逃げてはいけないという前向きな叱咤をしてくるという所がある。言っていることに筋は通っているが、個人的にこれが受け入れ難い。鬱や適応障害の人に、逃げ道を塞ぐカウンセリングをするのは逆効果だろうと実感をもって言いたい。

 タイトルの『死んだレモン』は、このカウンセリングでの言葉からであろう。スラングとしてのlemonには欠陥品という意味がある。本文の訳では「dead lemons=人生の落伍者」とされている。ベティはフィンに「あなたはいろいろなことから逃げている、自分は人生の落伍者と思うかどうか考えなさい」という宿題を課すのだ。タイトルの意味が分かった時、タイトルの付け方『人間失格』と一緒じゃんと思った。ともかく、厳しすぎるショック療法じゃないか。フィンも最初はベティや温かな町の人々と距離を置いている。得てしてアットホームな人々というのは、こちらから歩み寄りの姿勢を見せなければいつまでも他人のままである。だがフィンはコテージでの未解決事件を知るにつれ、それを解決しなければならないという強い意志に惹かれて、だんだんと逃避状態から脱し始める。リヴァトンの人々はコテージの未解決事件には消極的でフィンを諌める部分もあるが、少しずつ意欲的になり始めたフィンに寄り添うようになる。現在軸ではフィンは絶体絶命だが、移住して以降のフィンは様々なトラブルに見舞われながらも田舎での暮らしに慣れ心安い生活を始められるのではという希望が見え隠れする。妻との不仲や交通事故といった過去に引き摺られながらも新天地での生活に根を下ろし始めるこの不確かな前向きさは、自身に過失があると自覚するフィンの不器用な人間性を克明に照らしている。私はその人間臭さの中に思わず自分自身を垣間見てしまう所があった。

 コテージの未解決事件には近隣住民であるゾイル家の三兄弟が関与しているようで、フィンは強い猜疑心を持ちながらも証拠を見つけられずにヤキモキする中で様々な不慮の事態に見舞われる。それらはフィンを明確に害する意図を含んでいたが、やはりゾイル家にはアリバイがあり逮捕までは至らない。明らかに罪深い人間でありながら法では裁けないというジレンマが色濃く描かれるのだが、このあたりに本来フィンが真っ当な正義感を持っており、自身の現在に良心の呵責を感じているという所が垣間見える。因みに明らかな悪を法では裁けないという理不尽に関して、以前感想を書いた『開かせていただき光栄です』もめちゃくちゃ面白かった。閑話休題。26年前のコテージの親子行方不明事件、フィンに降りかかるいくつかの事件、現在軸でのフィンの絶体絶命の状況。これらがどのように繋がるのか、という所が最後の最後まで分からないのがスリリングで推理ものらしく面白かった。現在軸でのフィンは既にこれらの真実を掴んでいるからこそ絶体絶命のピンチに瀕しているわけだが、過去のフィンは事件の全貌を探っている状態である。物語を俯瞰し全ての状況が分かっているいわゆる神の視点と、一登場人物としての立場から見える不完全な情報が織り交ぜられていて、ある種フィンの語りが我々読者のものの見方と完全に一致する感覚があるのがなんというかゾクゾクした。推理小説にありがちなわざとらしく勿体ぶった種明かしという向きでなく、鮮やかに伏線が回収されつつも驚かせる要素もあって良い。これで新人賞を取っているのだからすごいなと思う。

 もう一つ、これについて書くと盛大なネタバレになるので軽く触れるだけにするが、この作品では作者のリアルなバックボーンが強く反映されている。作者フィン・ベル(余談だが作者は友人と賭けをして、負けたらペンネームと初作の主人公名をフィン・ベルにすると約束したそうだ)は主人公フィンと同じように南アフリカ出身でニュージーランドへの移住経験がある。主人公フィンは事故を起こした側だが、作者フィン・ベルは法心理学を専門としており受刑者へのカウンセリング等の仕事をしていた。車椅子使用者の主人公フィンが近隣住民と諍いを起こす話は実際の受刑者のエピソードを基にしているらしい。またこの事件の全貌において重要となる世界史的知識は、やはり作者の南アフリカ出身であることを強く意識させるものがある。最後まで読んで伏線回収した所で、高校の時に世界史やっていてめちゃくちゃ良かった〜気持ち良い〜〜〜となった。あまり書くとネタバレになるが、世界史上の貿易におけるアフリカの輸出物や東南アジアの関わり方を知っていると、アフリカ系の背景を持つ人の感覚を何となく擬似的に体験できて興味深いと思う。やっぱり西洋世界との関わりがある文化の人間って多かれ少なかれユダヤ人に対して思う所があるのだろうか。私は知識として面白いな〜と感じていたことだが、自分自身の歴史として血肉の一部としている人が本当にいるんだなという新たな発見(発見という言い方は正しくないが)だ。

 

 私は文学的で装飾的な文章が好きなので、どちらかというとこういった翻訳ものは文章を読むという点では少し物足りなさを感じはした。ただ、推理小説として全体の構図としても、中身としても個人的にはとても面白かった。物語を書く能力としての文才に、これが処女作なのかと頭を抱えもした。作者は心理学系で専門職をやっていたが現在は作家稼業に専念してのんびり暮らし、お金に困れば心理学の仕事をすれば良いかなという感じらしい。専門知識をつけた人間ってやっぱ人生の選択肢が多くて良いなあ。

 そういえば心理学で思い出したのだが、人間は好きなものに対し、好きな理由を見つけることで好きになっていくらしい。ある心理学実験について以前大学の講義で知った。被験者に2人の顔の写真を同時に見せて直感的に好きな方を選ばせ、すぐにその写真を伏せる。そして再びその写真を見せて好きな理由を挙げさせるのだが、実は2度目に見せるその写真は被験者が選んだ方ではない=被験者の好みでない写真にすり替えられている。にも関わらず、大半の被験者はそれがすり替えられたことに気づかず好みでないはずの写真について好きな理由をスラスラと語るのだ。実は人間は、好きだから選んだのではなく、自分で選んだから好きな理由があると考える。チョイスブラインドネスと言って、様々な実験があるのでぜひ検索してみて欲しい。一目惚れって現実にはないんだな。

 これはいわゆる直感的に好きではないと思ったとしても、それについて考えるとだんだん自分はそれに興味があると思い始めるという現象かもしれない。「好きの反対は無関心」が表れているようである。なんで最後にこの話をしたかと言うと、読書記録を兼ねて感想を書いていると、いやこの作品気に食わね〜!!!とか作中のこいつ嫌いだわ…とか思っても、なんとなくこれってこういう作者の意図があるのかもしれないと考えてだんだん嫌いになれなくなることが多々あるからだ。いやまあ好きでも嫌いでも、感情を揺さぶられた時点でその作品には自分にとって影響と価値があるとも思うので、作品が嫌いであることや逆に嫌いになれないことに対してどうということでもないんだけど。

 ともかく、この作者の2作目はまだ翻訳されていないそうなので翻訳されたら是非読みたい。