『鏡花短篇集』感想

 2022年、明けましておめでとうございます。誰に向かって言っているのか分からないけど。毎年スケジュール帳に、鑑賞した本や映像の作品を記録するようにしている。昨年は卒業論文鬱病のこともあって、本は全然読めていなかった。だから今年の目標は「なるべく本を読む、特に東西問わず古典作品に触れる」である。

 新年1冊目は岩波文庫出版『鏡花短篇集』にした。読書談義になるとだいたい好きな作家は泉鏡花と言うんだけど、その割にめちゃくちゃ読んでいるというわけではないニワカミーハー浅薄野郎なのでちょっとはあれ読んだよ!って言いたいのだ。そういう所が浅慮。でもまあきっかけはどんなでもいいと思う。最近話題の献血だって、人のためになれば別にきっかけはどうでもいいだろ派なので。そういえば献血行ってないからそろそろ行きたい。ちなみに私の献血行く理由は、成分献血の機械見るのが面白いからだ。血がグワァーと吸い上げられて管を通って機械に入り攪拌され分離するのを見るのがめちゃくちゃ興味深い。単純に自分の血が健全に観察できるの面白いよねってなる。あと、必要分はパックに詰められ要らない分が体内へと返ってくる、献血以外で味わうことのないあの独特の気持ち悪さがなんか好き。血液クレンジングってこういうことよ。っていう説明をすると、だいたいその感覚がちょっとおかしいよと引かれる。前に研究室の助教に言ったら「それあんまり他で言わない方が良いですよ」って苦笑いで返された。献血面白いだろうがよ。

 

 閑話休題。一作目は『龍潭譚』。泉鏡花の作品の中でも割と初期の頃に書かれた短篇で、彼の短編の中ではわりと有名かもしれない。ごめんそういう文化的背景の知識がないから全然嘘かもしれない。たしか20いくつかの時に出した作品だったかと思うが、これ20そこそこの若者が書ける語彙の量ではなくて目を見張る。

 あらすじ。主人公の少年千里が躑躅の咲き乱れる丘を歩いていた所道に迷い、神隠し(?)にあう。そこで神社に行ったり見知らぬ綺麗な女性と出会って添い寝したりしてから帰ってくると、千里をめちゃくちゃ探していたお姉ちゃんに怒られ周りの人々からは狐憑きにあったと忌避されるようになる。嵐の中お寺でお坊さんにお祓いをされて元通りに戻り、その嵐で千里が行った九ツ谺という名の谷は洪水に沈んだという。

 子供が神隠しにあう話って古今東西あるけれども、文章でこんなに巧みにこの世からどことも知れない場所へと誘われる様を描いている作品ってそんなに多くないのではないだろうか。躑躅の咲く丘でどこを見ても赤い躑躅一色の風景から虫につられて迷子になってしまうその移り変わり、九ツ谺で美女に添い寝してもらい亡くした母の幻影を見る描写、現実世界に戻ってきてからの落差。躑躅の咲く様を紅の雪と言うのが洒脱すぎて笑顔になってしまうな。前半の幻想的な様と、戻ってきてお祓いをされる箇所の乖離にとても引き込まれる。子どもの一人称で進む物語で、文章全体としての言葉の表現は複雑で語彙に富んだ繊細さなのに、千里の迷子になった時の不安だとか狐憑きと罵られた時の怒りといった子どもっぽい感情を写実的に描いている、その表現と内容の乖離と融合、そういう所がすごいなと。

 ちなみに今日放送されている(1月7日執筆)『千と千尋の神隠し』、この『龍潭譚』の影響を受けているとかいないとか聞いたことがある。本当にそうなのか真偽は定かでないけれど、鏡花の文章の情景美の豊かさを見ると、確かに宮崎駿作品の自然の繊細な描写と重なる部分があるように感じる。千尋が異界へと誘われあわや存在が消える恐怖や不安と闘う姿、早朝ハクに呼ばれて花の茂みを抜けた先でおにぎり食べて泣く所らへんなんか、なんとなく『龍潭譚』を映像化するとこうなるんだろうなと思ったり。気のせいかも知れない。異界ものっていっぱいあるしこれだけに影響受けたわけじゃないだろうし。ただジブリ泉鏡花も両方好きな私としては、好きなものと好きなものの共通点を見つけてエヘエヘ良いじゃんってなっている。

 二作目『薬草取』も、不思議系というか魔隠しというか幻想世界の匂いがする。医学生の高坂が医王山という山を登っていると、花取りらしき美しい女性に声をかけられる所から話が始まる。医王山は病に効く薬草が生えているとして有名で高坂は病人を助けるためにそこに赴き、他方花取りは四季の花々が同時に咲き乱れる美女ヶ原の花を摘んで売るために登っていると語った。高坂の求める薬になる花もそこにあるということで二人は道を共にするのだが、その道中で高坂は幼い頃に一度美女ヶ原へと来たことがあるという回想を花取りに聞かせる。病床につく母のため噂に聞く医王山へとがむしゃらに向かっていた所で、色々あって出会った綺麗な女性に助けられ薬になる花を取ることはできたが、下山の段になって山賊に襲われその女性が身を挺して守ってくれた。やっとこさ家へ帰ると三ヶ月も経っていたのだと言う。回想を聞かせ終わる頃に美女ヶ原に到着し花取りの手伝いをしていると、高坂の求めていた薬の花を残して花取りの姿は遠くへと消えてしまった。

 『龍潭譚』では神隠しにあう子どもの物語が現在として進行していくが、『薬草取』は子どもの頃に不思議な経験をした青年が当時の記憶をなぞりながら追体験していき、そして行き着いた先でさらなる神秘に遭遇するという話だ。前者では主人公の子どもと同時にその展開を知り初見での感情を共有するが、後者では主人公の語る過去の思い出を花取りと一緒になって聞きながらそれが現在とどう繋がっていくのか考える。作中人物との距離感の違いというのだろうか、同じ作者、似たテーマの作品でも、微妙に思い浮かぶ景色が異なるこの感じがなんとも純文学らしいと思った。純文学らしいって何だよ、語彙力カスか?不思議系、幻想系だからなんでもありでいいじゃんということではなく、あくまで物語の中での現実と神秘は区別されながらもその境界が溶けている、その二つに跨る時間性・空間性のバランス感覚が卓越しているなと驚嘆した。

 三作目『二、三羽ーー十二、三羽』は庭先にいる雀を観察する日常(?)もの。雀ってこんな所があって可愛いねっていう内容を徒然なるままに書き留めていて、ある日雀の蝋燭と名づけた植物をなんとなく探していると見知らぬ人の小屋に行き着く。そこで主人と女性に歓待されるが、関東大震災の後その家の様子を伺うと焼け野原になっていたのだった。鏡花ってこういう実生活を切り取った細やかで慎ましい文章も書くんだなあと意外に思った。初めて読んだのが『夜叉ヶ池』だったからというのもあるかもしれない。でもやっぱり鏡花らしいなと感じるのは、この作品では不思議なことが起こったわけではないけれど、でもやっぱりどこかそういう雰囲気がある所。昔近所にあった好きな駄菓子屋に小学生ぶりに行くと潰れていた時みたいな感覚と同じかも知れない。確かに現実の出来事ではあるんだが、自分の知らない間に知っているはずのものに変化が起こっていると狐に抓まれるような感じがする。ちゃんと考えると理屈は分かるんだけどなあっていう。

 四作目『雛がたり』。桃の節句に飾るお雛様についてかわいいねみたいなことを連ねる枕草子風語り。途中で雛に関する昔の思い出に触れながら、その何年後かに出先で訪れたお茶屋さんの奥の部屋にお雛様が飾ってあるのを見かけたと思ったら一瞬だけ昔の面影を怪奇的に見るも、定かじゃなかった。っていう短いお話。ほとんど小話とかSSといった趣で、大きな起承転結もなければ物語らしくもないというか、なんだか本当の昔の思い出を手慰みに書いてみたみたいな感じだった。作中で具体的な地名、静岡に行ったというのもそういう雰囲気を助長しているよう。お雛さんの語りがなんか枕草子っぽいなと思ったら「枕の草子は憎い事を言った。」と出てきてやっぱり意識してるんだなあと。短いだけに、鏡花の日本語の美しさと不思議さが表れているように感じる。寝る前に丁度いい。

 五作目『七宝の柱』は奥州平泉を訪れた際の旅行記、紀行の分類でいいのだろうか。内容些細については、物語というほどの起伏はないので割愛する。奥州平泉と言えば、個人的な思い出として挙がるのは中学受験である。奥州平泉が世界文化遺産に登録されたのが2011年のことで、またその年3月11日に東日本大震災が起こった。2012年2月らへんに受験を控えていた当時、塾で「今年の受験では東日本大震災と平泉が絶対に社会科で出るからな、覚えろよ」と口酸っぱく言われたものだ。せっかく世界遺産に登録されるのに被災したというのが、とても残念というか気の毒に思ったことを覚えている。奥州平泉は歴史でいうと奥州藤原氏の栄華の地でその建立物は仏教的な観点から評価されている。奥州藤原氏の三代、清衡、基衡、秀衡と続き四代目泰衡でその血が途絶えた。三代目秀衡は、歌舞伎『義経千本桜』牛若丸でかの有名な源義経と仲良しだったんだが、義経とその父頼朝の敵対の最中彼は亡くなり、家督が泰衡に引き継がれるも、泰衡は頼朝の重圧に負けて義経を討つ。その後泰衡も頼朝に攻められた、みたいな感じだったと思う。ちなみに義経鵯越の逆落としをした際に騎乗していた愛馬太夫黒は秀衡からもらった馬らしい。鵯越といえば畠山何某が愛馬好き過ぎるあまり自分が馬を担ぐという謎エピソードが有名である。そういえば奥州藤原氏のご遺体だが、世にも珍しく三代まではミイラの状態で、四代目は首だけが、平泉の中尊寺金色堂に納められていてたしか時たま公開している。この辺りの人の名前とか名称は暗記しろと言われていたのだが、案外と覚えているものである。

 まあ詳細は置いておいてこういった経緯や、平泉の建立物が仏国土、浄土をイメージして建てられているという要素は、とても文学的に魅力があるのだろうなと感じる。芭蕉の『奥のほそ道』でも平泉が描かれているし。『七宝の柱』は内容としては単なる紀行だし書いているものも事実なんだが、細部の描写なんかはやはり平泉が仏国土をイメージしているというのを念頭に置いて表現しているんだろうなと思わせる繊細さ、浮世離れした風体がある。風雅な言葉遣いを見ていると、なんだかこちらまで敬虔な仏教徒であるかのように感じられてくるのだからさすがの文章力である。清らかな心を抱きたい時に読みたくなる。

 六作目『若菜のうち』は、夫婦が春の日の中野道を散策していると子どもに出会う。というだけの小話。これ以上語られることはない。春の温かみとそれの育む命の息吹が感じられるような素朴さである。8ページ程の超短編で物語性は特にない。こういう風に世界を見る心の余裕が私にも欲しいなと、それくらいのことを思った。

 七作目『栃の実』。これも旅中の小話だろう。栃木峠というし福井、滋賀らへんでの移動中に具合を悪くしてしまい駕籠を頼む。それで運んでもらう道中で寄ったお茶屋の娘さんがちょっとした心遣いで栃の実をくれた、という話。弱った時に人の優しさに触れると何気ないことでも大層な思い出になるというのは実感する所だ。ただのお茶屋の娘なのに「奇しき山媛の風情」と表現するあたり、鏡花流の可憐で美しい女性像が垣間見える。物語の締めが他の作品に比してシンプルな分、その純朴さが映える。

 八作目『貝の穴に河童のいる事』は、漁師町の海岸と神社が舞台となっている。その漁師町の近くの沼に住む河童がある日浜に行った所、物見遊山に来た都会の人々に見つかりかけて貝の穴に隠れた。河童がいると知らず1人の人間が貝の中身をほじくろうとステッキを刺したので河童は怪我をし、その怒りから彼は漁師町の神社にいる姫神にその客らのうち女どもへと敵討ちがしたいとお願いをしに来た。神社にいる木兎や栗鼠、兎やらおかしな連中と、その客らを観察し彼らにいたずらをする。なんだか物の怪チックな生き物たちが面白おかしく人間に絡む、といった風情の話だ。河童が敵討ちがしたいと言う割にはそんなに大層な仕返しをするでもなく、また田舎の漁師町が舞台であるのでどこかイノセントでひょうきんな雰囲気が漂っている。個人的な印象だが、昔小学校の頃に読んでいた絵本『めっきらもっきらどおんどん』のような、妖怪なんだけど悪いやつじゃないっていう可笑しさと似ていると思う。小生意気で不気味だけどなんだか憎めなくて可愛い。

 最後の作品『国貞えがく』。主人公の母の遺品、国貞の描いた二百余枚の錦絵を巡る主人公と老獪爺の話である。主人公織次が生まれ故郷へ帰って来て、昔世話になっていた職人平吉の元を訪れる所から始まる。少年時代、母を早くに亡くした織次は学校で入り用の物理書を欲しがっていた。父と祖母は織次にその本を与える為に大事にしていた母の遺品である国貞の錦絵を売るも、安くで買い叩かれてしまう。それを平吉が買い戻してくれ、ずっと手元に保管していた。大人になった織次は母の遺品を取り戻したく平吉に訴えたが、平吉はその錦絵を中々手放そうとしない。その二人の応酬が短編となっている。

 少年時代の織次は、その錦絵を実際の人間かのように扱い「姉様たち」という風に呼びかけていた。その姉様たちが自分の我儘で売りに出されてしまった故、酷い目にあっているのではないかと後悔するその様は、なんとも子どもらしいながら生々しい空想とそれへの懺悔を描き出している。平吉はその絵を買い戻してやると言ってくれたが、その後絵を返してくれる様子はなく口八丁ではぐらかす。老獪で気に食わない爺だが、それを最後織次が「金子でつく話はつけよう」とやり込めるのが爽快である。

 トイ・ストーリーではないけれども、幼い頃に身近にあったものを、その当時も大人になっても、特別な精神的友人であるかのように感じるというのは一定の共感があるだろう。ただ『国貞えがく』においてそういった存在である錦絵は美しく官能的な女性像として描かれており、また亡くなった母の忘れ形見であるという所で、鏡花の女性観が全面的に押し出されている。泉鏡花、美しく婀娜っぽいながらも清らかな聖母、みたいな女性性と母性を完全な形で持ち合わせた女性が好きっぽい。文章としての美しさは言うべくもないが、その女性像についてはちょっと童貞くさくね?と思わないこともない。ちなみに彼、恋愛と結婚について『愛と婚姻』という随筆の中で語っているのでぜひ読んで欲しい。青空文庫で10ページくらいで読めるので。彼曰く「結婚が愛の大成というのは大きな間違いだ。結婚は社会の制度でしかなく愛や自由を制限してしまう。総括すれば社会に対する義務」(なんとなくの要約)だそうだ。恋愛と結婚は別だと考えているあたり、何とも現実的というか身も蓋もないというか。だからこそ理想の恋愛、理想の異性への強い拘りがあるのかなと感じる。

 

 新年一冊目かつ複数の作品が収録された短編集ということで、久しぶりに真面目に読んで作品と向き合った感がある。割と疲れた。ただ自分の感想を言語化することを念頭において読むと、普段ならただ読み流すはずの所でもセンサーが反応するというのか、しっかりと流れを意識して読むことができた。何となく創作作品を楽しむのもそれはそれで面白いが、たまにはこうやってちゃんと読み込むのも新鮮である。同じ短編集でも、作者が違うと様相が異なるのが興味深い。江戸川乱歩は探偵ものと怪奇ものでは全然読んだ時の印象や読了感が異なるが一貫してさらりと読める感じがする。それに対して泉鏡花は、雅文体の作品が混ざるということもあるが、内容自体は難しい物語でもないのにどこか不思議体験的な要素が頭に引っかかるような、若干の腑に落ちなさがある気がする。作者の世界観って、言葉回しの表現や物語の展開といった作風だけでなく、読んだ時の感じ方にまで表れるのだなと改めて思った。この辺りはやはり受け取り手の個人差があるとは言え。

 短編集ということで鏡花の色々な短編に触れ、短いながらも不思議にきらめく世界を感じられて贅沢だった。泉鏡花の文章がとても美しいという話は延々としていたが、『山月記』で有名な中島敦も鏡花の文章について「日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ」と言っている。なんというか、彼の文章は豪華絢爛な振袖のような、派手で華美ながら緻密に織られた重厚な布のような印象を受ける。鯱張った中身のない文章のようで最初は読みにくいかもしれないが、慣れるとひたすら日本語の美しさとそれの織りなす幻想的な風景に目が奪われる。読了に時間はかかったが、とても面白かった。