『太陽の塔』感想

 最近ようやくスマホを買い替えた。機種変をすると必ず付き纏うダルすぎる作業、データの引き継ぎをした。そういえば最近読書感想全然書いてないな?

 そういう訳で久しぶりに何か書こうと森見登美彦太陽の塔』を読んだ。他にも読んだ本はいろいろあるし感想も残しておきたいものがいっぱいあるのだが、とりあえず後期授業が始まるし大学が舞台のものにした。

 あとは友人が以前読んでブログに認めていたということもあって。知人の文章って、なんか読むのが無性に恥ずかしくなったり意外な言葉遣いに驚いたりする。彼の文章を読んでいると、彼の思想がそのまま文章になっていることを痛快に感じる一方で羨ましい〜キーッッッという気持ちにもなる。

 

 まあそんなことは置いておくとして、この本を読み終えて率直に感じたのは「ああこれ知り合いにいっぱいおるなあ…」である。

 いわゆるモテない陰キャ大学生像とでも言うべきだろうか。わりあい男子校出身にいがちな気がする、女性に対して神聖視しつつも斜に構えた態度をとる、モテ男に僻みをぶつけるとかそういう感じ。断じて個人的に男子校出身者が嫌いとかではない。ただ人格として・あるいは友人としての視点ではなく、恋愛という分野において見たら不得手なんだろうと察せられるということである。

 主人公の独白的な文体から感じられる肥大化した自意識というのか。ただ、彼のモテなさが自身の歪んだ認識に由来するという所は大分自覚的であるようだ。彼の周りにいる友人らも近しいタイプだろう。誰から「ダサいよ」と言われた訳でもないのに、誰かしらに避難されているかのような感覚で思わず心の中で反論してしまう所が多く見られる。言い訳がましい尊大な小心者、偉大なる陰キャ精神が存分に詰まっていて、めんどくさいけど憎みきれないキャラクターである。

 

 読んでいて感じた既視感は、『コクリコ坂から』に登場する寮・カルチェラタンに住む哲学徒。あるいは、ジャンルは全然異なるがヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』に登場する主人公の元彼ピーターも近いものがあるかもしれない。こういったタイプを突き詰めて、度の過ぎたのが宿野かほる『ルビンの壺が割れた』の水谷かなあと、読む中で色々思い浮かんだ。ここでそのあたりの話をするのはネタバレにもなるし、本作と関係ないので避ける。ただ同じものを読んだ人にどう?似てない?とちょっと聞いてみたい。

 さて赤裸々な自意識の開示という点で、「モテない男」は意外と典型的によく描かれる人物像かもしれない。ピーターに関しては別にモテない男ではないのだが、大人になりきれない男というのか、永遠に自分のことを少年だと思っていそうな所が当てはまるように思う。日本文学にもよくモテない男、冴えない男は登場するが、『太陽の塔』に出てくるようないわゆる現代的なオタク的非モテ男はいつ頃から認知されはじめたのだろうか?閑話休題

 

 主人公の「ここがモテない!」エピソードはやはり自転車まなみ号である。愛用する身の回り品に名前をつけるという行為自体、若干の幼稚さを感じさせるが、それ以上にまなみ号の扱いから察せられるものがある。

 雨の日も風の日も、富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときも、彼女はつねに私と共にあった。(49頁)

 まなみ号を水野さんのアパート付近に停めて忘れてしまった際の描写であり、ここだけ見るととても大事にしているように見える。が実のところまなみ号は、ブレーキが故障しておりそのサドルは剥げちょろけているのである。そして幾度も駐禁をきられ撤去されては取りに向かうということを繰り返している。

 本当に大切なものならもっと日頃からメンテナンスし、そもそもどこかに置き忘れるなど言語道断ではないか。それをこいつは、あたかも苦楽を共にしてきたかのように美化して語っているのだ。

 彼なりに愛着はあるかもしれないが、修理もせずただ使い潰しているだけのことをこうして美談に仕立てる所に、彼のエゴイスティックな精神が滲んでいる。「水野さん研究」も同じことで、基本的に愛情が一方的なのである。それにしても、曲がりなりにも恋人の関係であった元カノを水野さんと呼ぶこの微妙な距離感。切ないものだ。

 

 また文章全体の堅さというのか、文士的な言葉遣いというのか、どこか古風なのと京都が舞台ということで、最初は時代が少し古いのかと思っていたら全然現代で驚き笑いした。

 どうしてたかが日常の独白でそんなに気取った言葉遣いするんだ。そういう所だぞ!である。これは個人的な信念だが、カッコつけはそれで実際に格好がつくからカッコいいのである。格好のつかないカッコつけほど客観的にダサいものはない。

 ちなみに私は京都出身で中高時代よく街に出ていたので、クリスマス前の四条河原町の様子はありありと思い浮かぶ。もう本当に、この辺りの描写はモテない人間には切実な共感の嵐である。街中浮かれポンチだ。小説内で書かれている通り、河原町OPAから高島屋あたりの賑わいはすごい。これは卑屈になるのも分からなくない。個人的に作中最も主人公の等身大を感じた所だ。

 

 この作中で主に登場する女性は二人、元カノである水野さんと、かつてクラブの同じだった「邪眼」植村嬢である。

 読んでいる最中、またこの感想を書いている今改めて思い至って納得しつつ笑ってしまったのは、おそらくだが私は私の知人らにとっての「邪眼」であるということである。彼女はバカをやって身内で楽しんでいる男どもを一瞥するだけで萎えさせる鋭い眼の持ち主だが、それは彼女が男達のモテない現実というものを突きつける象徴であるからだ。いわゆる正論パンチャーである。

 世の中「男は理論、女は感情」などという古くさいステレオタイプな偏見が未だ蔓延っているが、植村嬢の如きインテリ女子はその対極にある。そしてしょうもないことをやっている男に「それ他人から見たらおもんないよ」とはっきり言っては煙たがられる存在だ。指摘された側は「そうかもしれないけどそうじゃないんだよ……!ロマンがないな!!」と水を差された気持ちになるのだ。

 先の私のまなみ号批判も、主人公からすればそういうことじゃない!と恨めしく思われることだろう。そもそも論は往々にして、それまでの話を全て切り崩して無に帰してしまう。主人公ら一派だって自分達のそういう所がモテない原因であることはおそらく重々承知なのだ。その上で妄想したり何だりしているのだから、余計なお世話もいい所だろう。ただし正論パンチには客観的、あるいは現実的強さが込められており、社会において負け組である主人公は植村嬢に対して勝ち目がないのである。だから植村嬢の目を見ると、睨め付けられているように感じ萎縮してしまう。

 また不思議なのは、水野さんが別れた後でも清く可憐な印象であることと植村嬢が対比的である所だ。水野さんだって男のロマンに水を差す現実的な女なのである。なんせ聖女ならば恋人からのクリスマスプレゼントに対して「私、部屋によけいなものが増えるのは嫌です」などとは言わないのだから。水野さんと植村嬢の差異が私には分からないのだが、男の側から見たらこれは何だろうか。惚れた弱みとかそういったものだろうか。誰か教えてほしい。

 

 文章全体を通して冴えない大学生の日常が描かれているが、これを読んで私はある種の安心感を抱いた。言葉にするには難しいのだが、なんというか「これは絶対現国の問題文にはならないな」という感じである。社会的に真っ当な恋愛観や道徳観にはそぐわない、リアルに生きる人間の感情の暴露だからかもしれない。「水野さん研究」なんか大分キショいが、元恋人への未練を抱き続ける意気地の無さは誰しもどこか覚えがあるだろう。

 この本が人気なのは、現実によくいる人間の飾らなさが共感を呼ぶからかもしれない。気取った文体や植村嬢への対抗意識、元カノへの未練をあたかも抱いていないかのように振る舞う意地の張り方。そういった自尊心の強さが存在することすらも描き出す、言わばメタ的な飾らなさである。私個人としては、共感というよりも植村嬢の視点から楽しく笑いながら読むことができて面白かった。