『闇の奥』感想

 大体月2度ほど書評を掲載していただくようになってから、読書した本はそちらで紹介することがほとんどになったので、全然自分のブログを更新していなかったことに気づいた。ブログの方は書評より長めに書くということもあって、研究やバイトが忙しくなると疎かになりがちである。

 ここ最近では以前よりSFを読むようになったが、自分としてはやっぱり海外小説が好きなのでそちらもなるべく書評で扱いたい。

 

 久しぶりに古典的な文学に触れたくなって、ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』(新潮文庫,2022)を読んだ。個人的にだが、新潮文庫のStar Classicsは表紙に使われている紙がマットでコート紙よりざらついている所が手に馴染んで読みやすいと思う。名作新訳のシリーズなので、古典を新品の本の状態で読める所も気持ちが良い。

 さて、この作品は19世紀末、西洋諸国によるアフリカ植民の行われた時代が舞台である。アフリカ中央部に派遣された船乗りマーロウは、その大自然に圧倒されながらも、アフリカの奥地出張所に勤めるらしい傑物の社員クルツの元へと河を遡航し、最奥へたどり着く。

 著者コンラッド自身の、船乗りとしてアフリカ植民地・コンゴへと派遣されたという実体験を元にして、文学として昇華された作品だ。当時、植民政策は政府の威信をかけた国家事業であり、欧米列強の市民らにとっては未開人への啓蒙という崇高な理念と大義名分を背負う明るい責務でもあった。国民の抱いた、世界の暗黒を明らむ西洋の列強という理想像はしかし、ベルギー支配下にあったコンゴ自由国のあまりに悲惨な実態が顕になるにつれ、徐々に打ち崩されていく。マスメディアの台頭によるアフリカ植民地の実態報道がその役を担っていたが、コンラッドがそれを自身の目で見た際の驚愕と失望は想像し得ない大きさだっただろう。

 船乗りマーロウはアフリカ奥地出張所への道中で、白人に攻撃される原住民のアフリカ民族や、使役され精魂尽き果てた黒人達の姿を知る。祖国から遠く離れたアフリカの地で、船の修理道具が十分に供給されることもない。着の身着のままで大自然の密林の中を進んでいくことへの畏れ。蛮族への啓蒙などという夢想が通用するはずもなく、理性的で人間らしい西洋人の像は脆くも崩れ去る。

 出張所にいる白人達はその現実を肌に感じながらも、奥地にいる傑物クルツに理想を見てよすがとしていた。植民政策の失敗を目の当たりにする一方で、誰もが黒人に対する白人の絶対的優位性を信じ続けているという嫌な二律背反だ。朱に交われば赤くなるというように、奥地に進むほど白人達は攻撃的な態度を取るようになる。一方で同じ船に乗る教化された食人部族の黒人達は、自身の欲求を制御し従順に労働する。この作品は、植民政策の闇を投げかけると同時に、圧倒的な大自然の魔性に直面する人間の様をも描いている。

 マーロウの派遣された目的たるクルツもまた、白人の理想を背負わされながら自然に敗北した矮小な存在であることが判明する。クルツが行った道を辿り、彼と精神的連帯を得たマーロウだけが、クルツの世界への絶望を共感することができた。『闇の奥』という作品の中で有名な「地獄だ!地獄だ!」というセリフは、クルツの孤独な本音の発露であり、コンラッド自身の声でもあるだろう。祖国に帰国しクルツの顛末について報告する際、マーロウは現実を知った自身やクルツと、能天気にも理想を唱える周囲の人間との間に存する深い溝を実感することになる。

 

 そもそもが著者の実体験であるということや、限りなく現実を描写しようとするその筆致が、当時の植民地主義礼賛に対する生々しい感情を伝えてくる。西洋の後ろ暗い歴史を当事者が訴えかけた、スキャンダラスな文学だ。マーロウが船乗り仲間に語りかける一人称文章であるというのも拍車をかけている。

 コンゴでの植民政策は、当時においてもそのあまりに残酷な搾取に対して非難轟々であった。世界史などでも列強の非人道的な政策として度々取り上げられる。コンゴでは象牙とゴムの採集が強いられていたが、定められた量に達しなければ手足を切断するという罰が下されていた。『闇の奥』発表の後には、モレル『赤いゴム』がコンゴの実態暴露の作品として発表され、やっと植民地支配の残酷な現実が西洋諸国に広まることとなる。

 テンション的には闇堕ちしたサン=テグジュペリだなと思った。ヒューマニズムの飛行士とそれに絶望する船乗りという点でも対比的だ。大自然の描写などはさすがだが、作品それ自体の面白さよりは、当時の時代を描いた文学として重要性があるという系統に感じる。個人的に、読むのが大変な作品だった。