NTLive『ライフ・オブ・パイ』感想

 ここ最近バイトが忙しく、残業が多い。バイトなのに。残業を切り上げて社員さんとの会話もそこそこに、本当に久しぶりに映画館へ走った。毎回ギリギリに着くけど、映画館って本当に遅刻する私たちの味方。

 それは置いておいて、前に観てからずっと札幌でもやって欲しいと言い続けたNTLiveが3年ぶりに上映するということで、初週『ライフ・オブ・パイ』を観た。トラと漂流した少年の物語。3年前観られなかった『戦火の馬』のスタッフがパペットを担当しており『戦火の馬』も相当好評だったので、どうしても今回観たかったものが観られて嬉しい。

 インドで動物園を経営する家族が、情勢不安の煽りを受けてカナダに居を移すために船に乗る。その船が嵐で難破し、家族の中でも一番若いパイだけが、トラやハイエナ、オランウータン、怪我をしたシマウマと共に救命ボートで生き延びる。助けが来ないまま、明日を生きるか死ぬかの漂流サバイバルが始まった、というあらすじ。観終わってから思うけど、告知がトラと少年との感動ストーリーみたいな絵面なのに『パンズ・ラビリンス』ばりのあらすじ詐欺してるよね。

 一部すでにツイートもしてるけど、改めて感想書き残したいので認めている。

 まず印象に残ったのが、舞台全体のダイナミズム。そもそもパペットをいっぱい出しているということもそうだし、音響・照明、プロジェクションマッピングなどの効果の迫力がすごかった。生き残ったパイが事情聴取に来た調査員たちへ語る、長閑で幸せな動物園での暮らしのシーンは、一番最初に動物のパペットが出てくる場面なのだが、細かな場転をしつつ華やかで繊細な動物の動きが見せられ、とてもインパクトが強い。

 舞台自体はそれほど大きくないどころか、パペットを動かすパペティアが複数いたり、漂流シーンでは中央のボートのみがアクティングスペースだったりと、役者に対して狭いほどだと思うが、それを感じさせないくらい自然の雄大さというのか、空間の広がりが感じられた。パイの空想と救助後の現実を行ったり来たりするので必然的に場転が多く、そのためにパネルや背景などをつくれない舞台で、動物のパペット・ベッド・ボートが要素として具象化され、それ以外の場所はプロジェクションだったり移動できる装置として登場したりという表現だった。オープンステージだからこそパイの語る世界にのめり込める、舞台の形式と装置の表現の巧みさがあったように思う。いっぱい賞取るのも納得。演劇を作る側としてはどうしても安直にパネルをたてたくなるが、この舞台を見るとそうした自分の発想力の貧困さが嘆かわしくなる。

 そしてやっぱりパペットがすごかった。メインとなるトラのリチャード・パーカーは3人のパペティアが動かしており、頭・胸部・下半身それぞれ別の人が操作する。エンドロールを見るに1幕と2幕で別々のチームが動かしていたようだが、いずれにしても3人で1体の生き物を動かし、しかもそこに動物としての微細な演技を加えるということの難しさが見て取れるようだった。トラの中に入って動かす担当の人なんかずっと頭を下げた中腰姿勢なので、本当信じられない体力だと思う。幕間に製作陣インタビューがあってそこでパペット制作について少し触れられるが、トラの骨格や動きを観察し再現する難しさ、繊細さは想像を絶するだろうなと。途中でトラが人のように足を組んで座るシーンなんか、シリアスな中で突然のコミカル要素なので笑えるのだが、どんなふうにパペットを作ったら四つん這いの生き物が後ろ足を組んでも違和感がないように仕組めるんだろうか。演出やストーリー、装置、効果どれを取っても非の打ち所がない舞台だが、それはそれとしてこのパペットが動いてる所を見るだけでも元が取れると思う。

 あと個人的に好きだった演出は、海中のシーン。嵐の中海に投げ出される場面は映画でもよくスローモーションで表されるけど、舞台でそれをやるのに、パイを黒子が一人で掲げてセルフスローモーションにしてたのはパワー感じた。ライオンキングもびっくり。魚が出てくる所では、動きの素早い群れた魚の尾のはためきを表現するために布?っぽい素材を使っていて、単純な作りながらも本当にリアリティがあって良かった。プロジェクションで水面の揺れが投影され、さまざまな角度から見られたので、舞台全体の雰囲気を汲み取るには映像の方が色々観られる気もした。パペットや装置の使い方なんか、アナログでやるからこその舞台で、たぶん生で観た方が感動はするんだろうけど。

 そしてなんといっても、パイの役だった主演ハイラム・アベセカラが快演だった。16歳らしい無邪気な無鉄砲さから、漂流やトラへの不安と焦燥、生命の限界に近づくにつれ朦朧とする様子がだんだん怖くなるし痛々しくなる。回想シーンにおいてこの瞬間現実として空腹や捕食者と対峙する緊迫した恐怖と、病室でそれを語りながら思い出しているPTSDとでは、色の異なる怖さなんだろうなと見ていて感じられた。前者では、差し迫った危険に対して心の中で父や母が勇気づけてくれ、また生き残るために必死であるからこそ、その恐怖のみに打ち勝てば良かったのだろう。しかし、生き延びてからは家族は誰もおらず、自身の行いに直面しなければならないという絶望がある。トラとパイ、本能と理性との対立という一つのテーマが、この演技に強く出ているように思う。

 あと本作、宗教や信仰、バイアスについての問題提起を多分に含んでいるのだが、中々直裁というか、宗教対立に実感のわかない私からするとすげえ言うじゃん…みたいなことをコミカルなシーンで言い争っていて、宗教の難しさを感じた。海難事故の調査員として日本人が出てきたのも、パイと「自分は何も信仰しない」という信仰のあり方の違いについて問答させたかったからなんだろうが、これについては少し海外から見た日本人と当事者では見え方が違うっぽいなと思ったり。というのも、調査員は「妻が病気になった時助けてくれたのは、神ではなく薬だった」から神への信仰はない、という無神論者だった。体感としても、西洋哲学史を少しかじる立場としても、無神かどうかということに拘るのはむしろ西洋的な価値観(キリスト教へのカウンターカルチャー)のように感じる。パイ自身、作中で自分の話を「神様を信じたくなる話だ」と言うが、これも、信じたいという願望の裏に、自分自身がこれほど壮絶な体験をしたのは神がいないからなのではという疑心がわいたからこそではないだろうか。あとどうでもいいが、日本人が出てきたことに違和感を抱いたのには、パイたちが乗っていた船の船員たちが割と東南アジア系の言語に聞こえたというのもある。日本の船だから日本の調査員が来ているというのが、そこに引っ張られて中盤まで理解できていなくて、なんで日本人登場した?となった。物語の理解力って大事だね。

 最後に、自分も過去公演で「ウミガメのスープ」に近い演目に微力ながら携わったので、極限の状態において問われる人間性、倫理というものの、演劇としての描き方というのがすごく深く沁みた。シリアスなテーマだからと言ってシリアス一辺倒では、観客として観ているとあまりにしんどいというか、起伏がなくて却ってその重大さが入ってこないんだなと。どこかにはコミカルな要素があって、観客である私たち自身に通じる日常的な幸福や生の楽しさがあってこそ、初めて異常性を問うことができるというのは、一つあるような気がする。

 約140分の舞台だったが、これほど時間が短く感じる演劇というのは中々ないと思うほど、細部に至るまで作り込まれた作品だった。