花咲

 高校時代の同級生が死んだ。

 彼女のお母さんからの電話で聞いた。あんまり突然のことで、ただ一言「そうですか…」と呟いただけだった。とにかく告別式やお通夜の日はスケジュール帳にメモしてあったが、結局何を話したのだったか記憶に残っていない。

 何しろ急だったものだから告別式は休みが取れなくて、有休でお通夜にだけ出席することになった。大人になって初めて、それも家族や親戚でなく他人のお葬式に行くということで、やれお悔やみの言葉はどうだとか香典はどうだとかって一人でてんやわんやに慌てた。結局友人が死んだという実感が湧いたのは、もっとずっと後になってからだった。

 

 香織は高校の頃の同級生だ。特別仲が良かったわけでも、何か一緒の部活だったわけでもない。強いて言うなら、たまに昼休みに図書室で冗談を言い合うくらいの関係はあった。彼女がいつも行動を共にしていた子達は、私みたいに静かに本を読むよりは教室の中心で楽しそうにおしゃべりをするようなタイプだった。だから彼女と私が先のような関係を持つようになったのは、高校二年で同じクラスになってしばらくしてから。多少の会話をするといっても、友達と言えるほどかは分からないくらいの距離感だ。

 

 まだ梅雨だというのに茹だるような暑さの中、図書室だけは冷房が一際強くて、本を読むのも好きだから、いつも昼休みはお弁当をなるべく早く食べて図書室で過ごしていた。

 その日は朝登校する時に道端で死んでいる蝉を見つけて、気分が悪かった。それで、タイトルはなんだったか思い出せないが、葬式だか死生観だか、そういう系統の本に手を出してみた。興味ないながらになんとなく流し読みしていたら、ふと彼女が図書室に入ってくるのが目に入った。

 本を読むようにも勉強好きなようにも見えなかったから珍しいな、と思う。彼女の方も図書室の雰囲気に少し落ち着かなかったようで、同じクラスの知り合いだった私を見つけてこちらに歩み寄ってきた。

 「ねえ、伊沢さん?」

名前の確認のようにも挨拶のようにも聞こえるイントネーションで、周りを憚ってか小さな声で呼びかけてくる。

「そうだけど。珍しいね、藤井さんはどうかしたの?」

「ううん、どうもしない。たまには静かなのも良いかなって。」

「そう。」

その日はそれ以上話すこともなく、ただ昼休みが終わるまで私は本を読んで、彼女は側に座っているだけだった。

 

 それから彼女は月に何度か図書室に来て、本を読むでもなくただ私の側に座っているだけのことがあった。宿題のことやテストのことで二言三言ぽつりと会話はしたが、別に読書の邪魔でもないし特に気にはならなかった。

 何ヶ月か経つと彼女が図書室に来る日の法則にうっすらと検討がついた。

「藤井さんさ、もしかして生理の時だけここに来てる?」

「そうだよ。なんで分かったの?」

大きな目がくりくりと不思議そうにこちらを見た。初めて気づいたが、彼女の瞳は図書室の人工の光でも分かるくらい明るい。

 「ここに来る日に体育があると、見学かいつもより大人しいでしょ。それに一ヶ月に一度三、四日は連続で来るから。」

聞かれて答えてから、これってもしかしてあんまり言わない方が良かったかも、なんてちょっと申し訳なくなる。

 「当たり、すごいね!小説の探偵みたい。」

彼女は気にしていないのか、溌溂とした笑みを浮かべている。この会話以来、どちらともなくお互いのことをあだ名で呼ぶようになった。

 

 香織のお通夜に来て、彼女のお母さんとお父さんにご挨拶をする。お悔やみの言葉ってこれで合ってるのかな、それにしたってマナーとは言え他人行儀で我ながら気持ちがこもってないな、なんて考えていた。

 彼女の面影のある涙に濡れた目を向けて、香織のお母さんは私に何かの入った包みを手渡しながら言った。

「純子ちゃん、香織がね…貴方に遺灰を渡してくれって、そう遺言に書いてあったの。それでね、一番仲が良い友達だから、約束だからってね…」

驚いて返答に困った私の手にその包みを握らせながら、またはらりはらりと涙を零していた。他にもご挨拶に来る人の対応があって、香織のお母さんとはそれっきりで会場を出てしまった。

 遺言なんて聞いていない。詳細は知らないけれど、ただ不慮の事故とのことだったはずだ。それに死んだ時の約束だなんて大層なもの、本当に彼女は私としただろうか。

 

 それで急に学生の頃を思い出した。

 初めて彼女と図書室で会った時、私はスピリチュアルな本を読んでいた。彼女とあだ名で呼び合うようになってさらにしばらく経って、確か3年の頃。そのことをずっと香織は覚えていたのか、それともふと思い出したのだろうか。

 「ね、ジュン。ジュンはさ、死にたいとか、自分が死んだ後のこととか考えたりする?」

俄かにそんなことを尋ねてきた。いつも教室の真ん中で明るく朗らかに笑う香織が言い出すものだから、私はびっくりした。

「ううん、全然。なんで?」

「別にどうもしないよ。ただ聞いてみたかっただけ!」

いつも通りの明るさで、そう答えていた。香織と死というものが全然結びつかない。だって彼女は太陽だとか向日葵だとかそういうものに喩えられるくらい明朗闊達だった。

 ただ彼女はそれ以来、図書室で話す時は折に触れてそういう話題をするようになった。それでもやはり依然として明るい、クラスの中心の子でもあったし、私とその話をする時でも単に興味があるというだけの様子だった。だから私は、ああ、香織もそういうことを考えたりするんだなと思って、何とはなしに香織の話すのを聞いたり時たま自分の意見を言ったりしていた。

 彼女は特に、死んだ後のことを考えるのがお気に召しているようだった。

「死んだら日本では火葬するでしょ?そしたら骨はどうなるか知ってる?」

「焼けて、遺骨を骨壷に入れるんでしょ。」

「そうなんだけど、骨壷に入らない残骨灰っていうのもあるの。そういうのは、処理する専門の業者さんがいるんだってー。」

なんだってそんなことに詳しいのか。聞き齧ったような言い方だから実際に見たことはないのだろう。

「それでその処理ってどうすんの。」

「その自治体で供養したり、専門の業者さんが肥料にしたりするんだって。遺骨なのにねー。」

あっさりとした口調で、ただ性格の良い香織にしては珍しく少し非難がましい言い方だったから、「ご不満なの」なんて尋ねてみた。

「人間死んだら骨と灰しか残らないんだよ。それを他人に利用されるなんて嫌じゃんね、自分の残り滓くらい好きな所に行かせろよってさ。」

「ふーん、じゃ、どこが良いのよ。」

「どこだろ、どこでも良いけど海かなあ…」

「どこでも良くないんじゃん。海、海ねえ。」

確かに香織には海が似合うだろう。陸上部のエースの彼女は手足が長く骨張っていて、だが健康的に日に焼けた肌が瑞々しい。笑うとパッと場が華やぐような気さえする。夏の太陽に照らされる海がこの上なくふさわしい。ただ素直にそう言うのもなんだか癪だ。

「死んだら海に流してほしいなんて、意外と香織はあっさりしてるのね。」

「そう?ジュンは純子って名前の割に理屈っぽくて天邪鬼だよ。」

「そんな話してない。あといつもジュンジュンって言うけど、すみこだからね。す、み、こ。」

「でも純子よりもジュンって感じじゃん。」

香織には香織の中のイメージがあるらしい。明るい彼女は天真爛漫を装って話の腰を折ることがある。

「それよりさ、ジュンは死んだらどうするの?」

遺灰の話に戻ったのだろうか。

「骨とか?考えたことない。死んだら後のことはもう知らないもの。」

「そしたらさ、遺言とか書いて、遺灰でダイヤモンドにしてもらったら?人間って炭素で出来てるから、ダイヤモンドにできるんだって。すごくない?」

「へえ、あっそう。」

「興味なさそー。ジュンはダイヤモンドね。高いらしいけど。」

何それ。遺族が望むならまだしも、死んだ後に本人がお金使ってまですることか?なんて思いつつ、結局昼休みが終わってこの話はそれきりだ。

 

 香織はあんな何年も前の、それも冗談みたいな口約束のことを私が覚えていると思っていたんだろうか。

 香織はいつも、同じ陸上部の友達と一緒だった。卒業と同時に何となく疎遠になった私は、彼女がどこの大学に行ったとかどこで働いているとか、そんなことは全く知らない。彼女の残骨灰の包みを手にしながら、香織のお母さんの言葉を反復していた。何をもって香織は私を1番の友達だなんて言っていたんだろう。

 もう何年も会っていなかったから、この世界に香織がいないというのが全然信じられない。この灰が香織の残り滓だとは、言われたって触ったって分からない。彼女が死んだ連絡を受けた時はとにかく衝撃で何も考えられなかったけれど、お葬式に出てこの残骨灰を手にしても、まだ喪失感は湧かないのだ。

 

 香織の残骨灰をいただいてから、もう一年弱。やっと海に来た。すぐにでも海に撒いた方が良いのかなんて思いつつも、海に遺灰を撒くのは法律的に大丈夫かとか、別に疾しい訳ではないけど誰かに見られたらちょっと困るなとか、仕事の合間を縫って調べたり準備したりしていたら結局こんなに時間が経ってしまった。

 海洋散骨をやっている業者はあったし、彼女は夏の海が似合うからどこか特別な所が良いかしらと考えはした。けれども遺灰を撒くのに厳密なルールはあまりないようだし、どこで撒いても海は海なんだから変わらないんじゃないかと思い直して、こうして自分で海まで運転してきたのだ。

 波の音と遠くの灯台の微かな光、それから冷たい空気の冴え渡るのでチカチカ瞬く星達だけが今この瞬間だ。今は真冬だし、夜だし、特別綺麗でもない近場の海だ。香織には全く真逆の海だ。よく考えたら香織の似合うような海に遺灰を撒くのは、流石に人目を憚るだろう。それに、意外と考えの深い彼女にはこの光景だって似合わないことはないと思う。

 ポケットからあの残骨灰の包みともう一つ、小さな袋を取り出す。香織との約束はたぶん、彼女の灰を海に撒くのと、私の遺灰をダイヤモンドにするのとで二つだった。彼女はどっちかが先に死んだらのこった方がその約束を果たす心算だったのだろうか。けど私は私の死んだ後のことなんて知ったことではないのだ。それに約束だなんてそんなつもりは全くなかった。

 だから、勝手だけど香織の遺灰の一部をダイヤモンドにした。日本ではやっていないから苦心して海外の業者を調べて連絡して、遺灰を送って、半年かかってようやくダイヤモンドになって返ってきた。彼女の言う通りとても高価でその割にはとても小さく薄氷の欠片みたいだ。時間もお金も大層かけて何してるんだろうとは冷静な頭が自問してくるが、それでもこうしてやらないとなんだか気がすまなかった。

 やっと約束を果たす。彼女の残骨灰を海に流して、そしてダイヤモンドを口に入れる。海水を手で掬って、それで喉に流し込んだ。あんまり塩っぱいから咳き込んで、それから、ずっと流れなかった涙がついぼたぼたと海に落ちていった。自分の残り滓くらい利用されたくないとか言っていたけど、お前は私の一部になったんだぞと、勝手に大事な約束をとりつけてそれ見たことかと自慢したくなった。

 ダイヤモンドだから消化されないんじゃないかとかそんなことはどうでも良い。ただ私は、やっとこれで香織のいなくなった世界で生きていくことを、彼女の欠片と共に受け入れた。