『金魚姫』感想

 突然急に寒くなりすぎて体調をよく崩している。あと今年雪虫多いしデカくない?もう雪が降るんだなと今から冬季うつになりそう。

 それはそれとして、今回紹介する本はアルバイトしている古本屋で購入したものだ。夏頃から友人の紹介で始めたバイトなのだが、自称読書家としてこれほど良いバイトはなかなかない。社割が効くのが最高すぎるし、古本屋なのでほしいと思っていた本がお手軽価格で見つかることがあって嬉しい。読書家と言うなら作者に儲けがある正規の方法で買えという意見は最もである。学生なので許されたい。

 古本屋談義は傍に置くとして、荻原浩『金魚姫』の話をする。夏祭りに刹那の儚さを感じる人はおそらく好きだろうと思う。

 最後の方で結末のネタバレを思い切りするので、未読の人は注意されたい。

 

 さて、金魚掬いをしたことがあるだろうか。私は小学生の頃、毎夏様々なお祭りで金魚掬いをしては金魚蠱毒を形成していた。

 純粋に金魚が好きだったのと、金魚掬いという手先の繊細さを求められるゲームが面白かったので。いかに元気な金魚をいっぱい掬えるかが肝であった。そして毎回持ち帰るから、家の金魚水槽はダイニングテーブルの一片を占める大きさだったし常に金魚が十数匹はいた。その中で、やはり古株の大きい金魚は縄張り争いで新入りを淘汰し、水槽内の数を一定に保っていた。どうでもいいが、金魚ってなんでかデカくなると相貌がふてこくなるよね。

 

 物語の主人公は29歳ブラック企業勤めの冴えないサラリーマン・江沢潤である。ブラック企業勤めだけあって、あまりに辛い労働環境で過ごす中、たまたま近所の神社でやっていた夏祭りへと出かける所から物語は展開する。

 酒と眠剤で朦朧とする視界にふと入った金魚掬いの露店で、潤は琉金1匹を掬い持って帰った。

 すると赤い中華服のようなものを着た女が部屋に現れる。おそらく金魚の化身であるようで、この女・リュウとの奇妙な共同生活が始まる。すると、金魚に変ずる女の他にも不思議なことが起こり始め……。

 

 以上が簡単なあらすじである。あらすじやタイトルはファンシーなファンタジー小説のようだが、まず最初に潤のうつ的感覚の表現であったり会社での勤務の描写であったりと暗い現実が聳えているので、まずそこで面食らう。

 また、動物を取り扱う小説には珍しいことに、金魚という種に関する歴史や原産である中国の話題も随所に出される(リュウの秘密が明かされる過程で明らかになっていく)ため、その点でも良い意味で予想を裏切られた。

 

 金魚のリュウが潤と暮らし始め段々と馴染んでゆくその日常の狭間には、謎の多いリュウの過去が重厚な表現で綴られる。回想と現実を交互に織り交ぜる手法は古今東西よくあるが、この小説は特に両者のコントラストが強く印象づけられる。些細でユーモラスな日常と唐突なホラー。怖い。

 ところで、中国の歴史書等に載っている古事成語や逸話はどうしてやたらバイオレントなのだろうか。本作品はそうした中国文化独特の壮絶さを的確に表現している。そしてリュウはそんな中国原産の金魚なので、潤の視点では乙女らしいお茶目さや儚さを見せる一方で、人外としての異様さ、凄みのある美しさも併せ持っているのである。金魚の妖しい鮮麗さが余すことなく表れていて、金魚好きとしては感無量である。

 

 知っているだろうか。金魚というものの美しさは概ね、上から見たときの左右対称さ、華やかさ、力強さ等が基準である。というのも金魚の品評会ではケースに入った金魚を上から眺めるからである。美の基準は様々に思想があろうが、それは自然美のようなあるがままの良さでもなければ機能美のような整合性への志向でもない。徹頭徹尾人工的な造形美である。上からの見た目という限定的な視点での美しさを求めて掛け合わされた金魚達は、だから水槽に入れて飼ってみると、豪華絢爛であるにも関わらずどこか歪さや異形的不自然さを感じさせる。

 私は金魚が好きだと述べたが、金魚の持つぬらりとした目やでっぷりと丸い腹を見るとゾッとする瞬間がある。らんちゅうの弓なりに曲がった背、オランダ獅子頭のもこもこした頭部、水泡眼の目の下の膨らみ。どれも魚という生き物としては奇形である。それが人間にとっては鑑賞に値するから、交配によって金魚の種として固定された。ちなみに金魚は人の手を加えずに繁殖させると、代を重ねるごとに原種のフナへと近づくという。金魚の特徴の多くは自然では淘汰されるものだ。

 金魚の美は追求された豪奢な造形とグロテスクさの両面性を備えている。『金魚姫』はこの金魚の美しさを余すことなく表現している。この両面性の表現は江戸川乱歩夢野久作寺山修司のごとき幻想文学的要素を含んでいると感じられる。軽妙なリュウとの会話を見る限り、もちろんその点のみに大きな比重を割いている訳ではないだろうが。

 また、金魚ビジネスの中でどれほど金魚がハネられる(殺処分される)のかを踏まえれば、リュウと出会い死者を目にした潤が生きることの重要性に気づくのも、皮肉ながらさもありなんといったところである。

 

 先ほど幻想文学の作家の名前を挙げたが、これまでブログで幾度か触れたように私は作品を鑑賞する時、どこが誰の作品に似ているか、誰に影響を受けていそうか、といったメタ的な想像をすることが多い。自身の読書遍歴に照らして作品を見るのが楽しいのだ。『金魚姫』でいうと、大まかに3作品あった。

 

 まずビジュアルで直感したのは『崖の上のポニョ』である。赤い女の子の魚と言えばポニョだ。魚の女と人間の男の出会いという点では合致するが、ストーリーが進むにつれ全く趣の異なる作品だと感じたのでイメージだけだが。ちなみに『崖の上のポニョ』は私の好きな『ハウルの動く城』で出てきたセリフがあるなど繋がっている所があるので、ぜひ比較しながら観てみてほしい。

 

 次に文章、語彙といった表現から思い出されたのが岡本かの子『金魚繚乱』である。あらすじは次の通り。

 金魚屋で育てられた主人公復一が、同級でいじめていた令嬢真佐子に自身でも訳が分からないまま執着してしまう。ただし真佐子を現実に手に入れることはできないので、神魚華鬘之図に記されるような絢爛な金魚をつくり出すことでその執着心を昇華させようとする。

 耽美的な作風や豊かな色彩表現、情景描写と理想の金魚創造に没頭する復一の狂気的な様子が対比的で、とても印象に残った作品であった。

 そういった表現で近いものを感じたということと、『金魚姫』で潤が手にした金魚の指南書の作者・長坂常次郎の金魚に心血を注ぐ姿が主人公に似ている。どちらの作品でも、金魚は健康的ではない退廃的な美の象徴である。『金魚繚乱』はあおぞら文庫で読める作品なのでぜひ読んでほしい。

 

 最後に挙げるのはやはり『人魚姫』である。タイトルからして真っ先に思いつく作品ではないかと思う。ただ一般的に有名なディズニー的な人魚姫像ではなく、原作であるアンデルセンの方である。アンデルセンの物語では人魚姫は王子と両思いになってハッピーエンドという結末にはならない。そして『金魚姫』はこのアンデルセンの物語を踏襲しているように思われる。『人魚姫』(アンデルセン童話では『人魚の姫』だが便宜上こちらを用いる)について詳細な内容を要約する。

 アンデルセンの世界観では、人魚は300年も生きる代わりに人間と違って魂を持たず、死後の魂が天国に行くということはない。ただ泡となって消えてしまうのみである。ただし人間に愛され、結婚の誓いをすればその人の魂が人魚にも分け与えられて死後天国に行くことができるようになる。

 人魚の姫は、嵐の中で助けた王子と王子の持つ不死の魂に思い焦がれ、王子に愛され魂を得ることを夢見るようになる。そのために魔法使いのおばあさんと取引し、声の代わりに人間の足をもらう。

 王子は声のない人魚姫をかわいがるが、嵐の後意識が戻った時に自身を見つけてくれた修道院の娘に恋している。実際には人魚姫が王子を助けたことを知らず、隣国の姫が実はその修道院の娘であったことから王子は隣国の姫と結婚してしまう。人魚姫の姉達は魔法使いに願って、自分の髪と引き換えにナイフをもらい、そのナイフで王子を殺せば姫は人魚に戻ることができると説得しようとする。人魚姫は王子と隣国の姫の幸せを願い、泡となってしまう。

 あまり知られていないのは、人魚姫が泡となってしまった後のことである。その後、姫は空気の精となる。他の空気の精に訊ねると、彼らは人には見えず魂を持たないが、良い行いをすればいつかは魂を授かって天国に行くことができるという。親を喜ばせかわいがられる良い子を見つけると、思わずそういう子に空気の精は微笑む。すると神はそれを見ていて、300年のつとめから1年減らしてくれるのだ。『金魚姫』との関係ではあまり重要ではないことだが、キリスト教的世界観を強く抱いた作品である。

 人魚姫は恋焦がれる王子と結婚できず、かといって自身のために王子を殺すこともできず、死んで300年空気の精として現世を漂うことになる。ディズニーの作品と比べるとハッピーエンドではないのだが、一途で誠実な愛はいっときの愛憎や悲哀に勝る、善いことをすればいつか天国に行けるという教訓を含んだ、切ないながらも温かな物語である。

 

 ここからは私の勝手な考察になるので全く事実無根であるが、以上の内容は『金魚姫』の中で再解釈され描き直されているように思う。めちゃくちゃネタバレを含むので注意されたい。

 物語が展開するうちに判明していくことだが、金魚のリュウは元は昔の中国に生きた人間だった。相思相愛の許嫁と結婚する所を引き裂いた男を仇敵として、金魚の化身となってその末裔を殺すまで復讐に燃えることとなる。人魚姫は王子と結婚できずに死んだ後、300年経てば天国に行けるが、その期間は良いことをすれば短くなり悪いことをすれば延長されていく。おそらくだが空気の精となった人魚姫になぞらえているのではないだろうか。そして復讐を続けるリュウは、300年どころではないくらい長く現世に留まっている。

 その長きに渡る復讐の最中出会ったのが潤である。金魚掬いで見せ玉が掬えなければ自殺するつもりだった潤を、リュウは図らずも助けることになる。(ちなみに金魚を見かけた際の「花火は金魚だった」という表現は『人魚姫』でも近いものが出てくる。)また共に日々を過ごす中でうつだった潤に生きる気力を抱かしめるという点でもリュウは潤を救っている。人魚姫との共通点である。そして人魚姫と王子同様に、リュウも潤と同様に人間としての生活の中で様々な体験をし細やかな幸せを感じるようになる。

 物語の最終盤、潤が仇敵の末裔であったことが判明するも、すでに潤のことを思っていたリュウは潤のことを殺さない。そしてただの金魚となってしまい、最期は結婚した潤と潤の息子揚河に看取られて墓に入れられる。潤には見えなくなったが、揚河には何度か人となったリュウの姿が見えていた。

 この結末部分が、おそらく復讐に囚われず愛する人を思う『人魚姫』本来の物語なのだろう。だからリュウは潤を殺さない決断をした時から喋らなくなる。そして普通の金魚に戻り、リュウは空気の精となってしまう。リュウが普通の金魚になってしまったという表現が、息子という言葉が出てきてから、つまり潤が他の人と結婚したことを示唆してからなされるのは、人魚姫の物語をレトリカルに表しているためだろう。そして潤には見えず子揚河には楽しそうなリュウが見えたのは、空気の精となったリュウが息子に微笑んでいたためである。潤とその家族の幸せを願っていたのではないだろうか。

 ただ、一つ異なるのはリュウのお葬式を行うことである。『人魚姫』では人魚は死後泡となって何も残らないからお墓を作ることができないという言葉が登場する。墓の中で土に還り、死後の魂が天国に行けるのは人間の特権である。空気の精となったリュウが子を見て微笑む度300年のつとめが1年短くなる。そうして潤や家族を見つめて思わず微笑んだ数だけ天国に行くのが早くなったのだろう。そしてついに不死の魂を得られたというのが、リュウのお葬式の示す所ではないだろうか。

 

 全体を通して、読んでいる最中の高揚感をとても楽しめた作品だった。そもそも私が金魚と『人魚姫』が好きだったということも相まって、読後考えたいことがたくさんあった。カツカレー!そういった考察の面でも興味深いことが多くついつい長々と書き連ねてしまったが、自分としてはまとめたことで新たな発見も得られたので身になったこともあり良かった。ただ昨日書いていたら保存ミスで2000字とんだ時はブログやめようかと思った。

 今回感想書くために岡本かの子『金魚繚乱』とアンデルセン『人魚の姫』を改めて読み直した。両方ともあおぞら文庫で読めるのでぜひ。