『鏡花短篇集』感想

 2022年、明けましておめでとうございます。誰に向かって言っているのか分からないけど。毎年スケジュール帳に、鑑賞した本や映像の作品を記録するようにしている。昨年は卒業論文鬱病のこともあって、本は全然読めていなかった。だから今年の目標は「なるべく本を読む、特に東西問わず古典作品に触れる」である。

 新年1冊目は岩波文庫出版『鏡花短篇集』にした。読書談義になるとだいたい好きな作家は泉鏡花と言うんだけど、その割にめちゃくちゃ読んでいるというわけではないニワカミーハー浅薄野郎なのでちょっとはあれ読んだよ!って言いたいのだ。そういう所が浅慮。でもまあきっかけはどんなでもいいと思う。最近話題の献血だって、人のためになれば別にきっかけはどうでもいいだろ派なので。そういえば献血行ってないからそろそろ行きたい。ちなみに私の献血行く理由は、成分献血の機械見るのが面白いからだ。血がグワァーと吸い上げられて管を通って機械に入り攪拌され分離するのを見るのがめちゃくちゃ興味深い。単純に自分の血が健全に観察できるの面白いよねってなる。あと、必要分はパックに詰められ要らない分が体内へと返ってくる、献血以外で味わうことのないあの独特の気持ち悪さがなんか好き。血液クレンジングってこういうことよ。っていう説明をすると、だいたいその感覚がちょっとおかしいよと引かれる。前に研究室の助教に言ったら「それあんまり他で言わない方が良いですよ」って苦笑いで返された。献血面白いだろうがよ。

 

 閑話休題。一作目は『龍潭譚』。泉鏡花の作品の中でも割と初期の頃に書かれた短篇で、彼の短編の中ではわりと有名かもしれない。ごめんそういう文化的背景の知識がないから全然嘘かもしれない。たしか20いくつかの時に出した作品だったかと思うが、これ20そこそこの若者が書ける語彙の量ではなくて目を見張る。

 あらすじ。主人公の少年千里が躑躅の咲き乱れる丘を歩いていた所道に迷い、神隠し(?)にあう。そこで神社に行ったり見知らぬ綺麗な女性と出会って添い寝したりしてから帰ってくると、千里をめちゃくちゃ探していたお姉ちゃんに怒られ周りの人々からは狐憑きにあったと忌避されるようになる。嵐の中お寺でお坊さんにお祓いをされて元通りに戻り、その嵐で千里が行った九ツ谺という名の谷は洪水に沈んだという。

 子供が神隠しにあう話って古今東西あるけれども、文章でこんなに巧みにこの世からどことも知れない場所へと誘われる様を描いている作品ってそんなに多くないのではないだろうか。躑躅の咲く丘でどこを見ても赤い躑躅一色の風景から虫につられて迷子になってしまうその移り変わり、九ツ谺で美女に添い寝してもらい亡くした母の幻影を見る描写、現実世界に戻ってきてからの落差。躑躅の咲く様を紅の雪と言うのが洒脱すぎて笑顔になってしまうな。前半の幻想的な様と、戻ってきてお祓いをされる箇所の乖離にとても引き込まれる。子どもの一人称で進む物語で、文章全体としての言葉の表現は複雑で語彙に富んだ繊細さなのに、千里の迷子になった時の不安だとか狐憑きと罵られた時の怒りといった子どもっぽい感情を写実的に描いている、その表現と内容の乖離と融合、そういう所がすごいなと。

 ちなみに今日放送されている(1月7日執筆)『千と千尋の神隠し』、この『龍潭譚』の影響を受けているとかいないとか聞いたことがある。本当にそうなのか真偽は定かでないけれど、鏡花の文章の情景美の豊かさを見ると、確かに宮崎駿作品の自然の繊細な描写と重なる部分があるように感じる。千尋が異界へと誘われあわや存在が消える恐怖や不安と闘う姿、早朝ハクに呼ばれて花の茂みを抜けた先でおにぎり食べて泣く所らへんなんか、なんとなく『龍潭譚』を映像化するとこうなるんだろうなと思ったり。気のせいかも知れない。異界ものっていっぱいあるしこれだけに影響受けたわけじゃないだろうし。ただジブリ泉鏡花も両方好きな私としては、好きなものと好きなものの共通点を見つけてエヘエヘ良いじゃんってなっている。

 二作目『薬草取』も、不思議系というか魔隠しというか幻想世界の匂いがする。医学生の高坂が医王山という山を登っていると、花取りらしき美しい女性に声をかけられる所から話が始まる。医王山は病に効く薬草が生えているとして有名で高坂は病人を助けるためにそこに赴き、他方花取りは四季の花々が同時に咲き乱れる美女ヶ原の花を摘んで売るために登っていると語った。高坂の求める薬になる花もそこにあるということで二人は道を共にするのだが、その道中で高坂は幼い頃に一度美女ヶ原へと来たことがあるという回想を花取りに聞かせる。病床につく母のため噂に聞く医王山へとがむしゃらに向かっていた所で、色々あって出会った綺麗な女性に助けられ薬になる花を取ることはできたが、下山の段になって山賊に襲われその女性が身を挺して守ってくれた。やっとこさ家へ帰ると三ヶ月も経っていたのだと言う。回想を聞かせ終わる頃に美女ヶ原に到着し花取りの手伝いをしていると、高坂の求めていた薬の花を残して花取りの姿は遠くへと消えてしまった。

 『龍潭譚』では神隠しにあう子どもの物語が現在として進行していくが、『薬草取』は子どもの頃に不思議な経験をした青年が当時の記憶をなぞりながら追体験していき、そして行き着いた先でさらなる神秘に遭遇するという話だ。前者では主人公の子どもと同時にその展開を知り初見での感情を共有するが、後者では主人公の語る過去の思い出を花取りと一緒になって聞きながらそれが現在とどう繋がっていくのか考える。作中人物との距離感の違いというのだろうか、同じ作者、似たテーマの作品でも、微妙に思い浮かぶ景色が異なるこの感じがなんとも純文学らしいと思った。純文学らしいって何だよ、語彙力カスか?不思議系、幻想系だからなんでもありでいいじゃんということではなく、あくまで物語の中での現実と神秘は区別されながらもその境界が溶けている、その二つに跨る時間性・空間性のバランス感覚が卓越しているなと驚嘆した。

 三作目『二、三羽ーー十二、三羽』は庭先にいる雀を観察する日常(?)もの。雀ってこんな所があって可愛いねっていう内容を徒然なるままに書き留めていて、ある日雀の蝋燭と名づけた植物をなんとなく探していると見知らぬ人の小屋に行き着く。そこで主人と女性に歓待されるが、関東大震災の後その家の様子を伺うと焼け野原になっていたのだった。鏡花ってこういう実生活を切り取った細やかで慎ましい文章も書くんだなあと意外に思った。初めて読んだのが『夜叉ヶ池』だったからというのもあるかもしれない。でもやっぱり鏡花らしいなと感じるのは、この作品では不思議なことが起こったわけではないけれど、でもやっぱりどこかそういう雰囲気がある所。昔近所にあった好きな駄菓子屋に小学生ぶりに行くと潰れていた時みたいな感覚と同じかも知れない。確かに現実の出来事ではあるんだが、自分の知らない間に知っているはずのものに変化が起こっていると狐に抓まれるような感じがする。ちゃんと考えると理屈は分かるんだけどなあっていう。

 四作目『雛がたり』。桃の節句に飾るお雛様についてかわいいねみたいなことを連ねる枕草子風語り。途中で雛に関する昔の思い出に触れながら、その何年後かに出先で訪れたお茶屋さんの奥の部屋にお雛様が飾ってあるのを見かけたと思ったら一瞬だけ昔の面影を怪奇的に見るも、定かじゃなかった。っていう短いお話。ほとんど小話とかSSといった趣で、大きな起承転結もなければ物語らしくもないというか、なんだか本当の昔の思い出を手慰みに書いてみたみたいな感じだった。作中で具体的な地名、静岡に行ったというのもそういう雰囲気を助長しているよう。お雛さんの語りがなんか枕草子っぽいなと思ったら「枕の草子は憎い事を言った。」と出てきてやっぱり意識してるんだなあと。短いだけに、鏡花の日本語の美しさと不思議さが表れているように感じる。寝る前に丁度いい。

 五作目『七宝の柱』は奥州平泉を訪れた際の旅行記、紀行の分類でいいのだろうか。内容些細については、物語というほどの起伏はないので割愛する。奥州平泉と言えば、個人的な思い出として挙がるのは中学受験である。奥州平泉が世界文化遺産に登録されたのが2011年のことで、またその年3月11日に東日本大震災が起こった。2012年2月らへんに受験を控えていた当時、塾で「今年の受験では東日本大震災と平泉が絶対に社会科で出るからな、覚えろよ」と口酸っぱく言われたものだ。せっかく世界遺産に登録されるのに被災したというのが、とても残念というか気の毒に思ったことを覚えている。奥州平泉は歴史でいうと奥州藤原氏の栄華の地でその建立物は仏教的な観点から評価されている。奥州藤原氏の三代、清衡、基衡、秀衡と続き四代目泰衡でその血が途絶えた。三代目秀衡は、歌舞伎『義経千本桜』牛若丸でかの有名な源義経と仲良しだったんだが、義経とその父頼朝の敵対の最中彼は亡くなり、家督が泰衡に引き継がれるも、泰衡は頼朝の重圧に負けて義経を討つ。その後泰衡も頼朝に攻められた、みたいな感じだったと思う。ちなみに義経鵯越の逆落としをした際に騎乗していた愛馬太夫黒は秀衡からもらった馬らしい。鵯越といえば畠山何某が愛馬好き過ぎるあまり自分が馬を担ぐという謎エピソードが有名である。そういえば奥州藤原氏のご遺体だが、世にも珍しく三代まではミイラの状態で、四代目は首だけが、平泉の中尊寺金色堂に納められていてたしか時たま公開している。この辺りの人の名前とか名称は暗記しろと言われていたのだが、案外と覚えているものである。

 まあ詳細は置いておいてこういった経緯や、平泉の建立物が仏国土、浄土をイメージして建てられているという要素は、とても文学的に魅力があるのだろうなと感じる。芭蕉の『奥のほそ道』でも平泉が描かれているし。『七宝の柱』は内容としては単なる紀行だし書いているものも事実なんだが、細部の描写なんかはやはり平泉が仏国土をイメージしているというのを念頭に置いて表現しているんだろうなと思わせる繊細さ、浮世離れした風体がある。風雅な言葉遣いを見ていると、なんだかこちらまで敬虔な仏教徒であるかのように感じられてくるのだからさすがの文章力である。清らかな心を抱きたい時に読みたくなる。

 六作目『若菜のうち』は、夫婦が春の日の中野道を散策していると子どもに出会う。というだけの小話。これ以上語られることはない。春の温かみとそれの育む命の息吹が感じられるような素朴さである。8ページ程の超短編で物語性は特にない。こういう風に世界を見る心の余裕が私にも欲しいなと、それくらいのことを思った。

 七作目『栃の実』。これも旅中の小話だろう。栃木峠というし福井、滋賀らへんでの移動中に具合を悪くしてしまい駕籠を頼む。それで運んでもらう道中で寄ったお茶屋の娘さんがちょっとした心遣いで栃の実をくれた、という話。弱った時に人の優しさに触れると何気ないことでも大層な思い出になるというのは実感する所だ。ただのお茶屋の娘なのに「奇しき山媛の風情」と表現するあたり、鏡花流の可憐で美しい女性像が垣間見える。物語の締めが他の作品に比してシンプルな分、その純朴さが映える。

 八作目『貝の穴に河童のいる事』は、漁師町の海岸と神社が舞台となっている。その漁師町の近くの沼に住む河童がある日浜に行った所、物見遊山に来た都会の人々に見つかりかけて貝の穴に隠れた。河童がいると知らず1人の人間が貝の中身をほじくろうとステッキを刺したので河童は怪我をし、その怒りから彼は漁師町の神社にいる姫神にその客らのうち女どもへと敵討ちがしたいとお願いをしに来た。神社にいる木兎や栗鼠、兎やらおかしな連中と、その客らを観察し彼らにいたずらをする。なんだか物の怪チックな生き物たちが面白おかしく人間に絡む、といった風情の話だ。河童が敵討ちがしたいと言う割にはそんなに大層な仕返しをするでもなく、また田舎の漁師町が舞台であるのでどこかイノセントでひょうきんな雰囲気が漂っている。個人的な印象だが、昔小学校の頃に読んでいた絵本『めっきらもっきらどおんどん』のような、妖怪なんだけど悪いやつじゃないっていう可笑しさと似ていると思う。小生意気で不気味だけどなんだか憎めなくて可愛い。

 最後の作品『国貞えがく』。主人公の母の遺品、国貞の描いた二百余枚の錦絵を巡る主人公と老獪爺の話である。主人公織次が生まれ故郷へ帰って来て、昔世話になっていた職人平吉の元を訪れる所から始まる。少年時代、母を早くに亡くした織次は学校で入り用の物理書を欲しがっていた。父と祖母は織次にその本を与える為に大事にしていた母の遺品である国貞の錦絵を売るも、安くで買い叩かれてしまう。それを平吉が買い戻してくれ、ずっと手元に保管していた。大人になった織次は母の遺品を取り戻したく平吉に訴えたが、平吉はその錦絵を中々手放そうとしない。その二人の応酬が短編となっている。

 少年時代の織次は、その錦絵を実際の人間かのように扱い「姉様たち」という風に呼びかけていた。その姉様たちが自分の我儘で売りに出されてしまった故、酷い目にあっているのではないかと後悔するその様は、なんとも子どもらしいながら生々しい空想とそれへの懺悔を描き出している。平吉はその絵を買い戻してやると言ってくれたが、その後絵を返してくれる様子はなく口八丁ではぐらかす。老獪で気に食わない爺だが、それを最後織次が「金子でつく話はつけよう」とやり込めるのが爽快である。

 トイ・ストーリーではないけれども、幼い頃に身近にあったものを、その当時も大人になっても、特別な精神的友人であるかのように感じるというのは一定の共感があるだろう。ただ『国貞えがく』においてそういった存在である錦絵は美しく官能的な女性像として描かれており、また亡くなった母の忘れ形見であるという所で、鏡花の女性観が全面的に押し出されている。泉鏡花、美しく婀娜っぽいながらも清らかな聖母、みたいな女性性と母性を完全な形で持ち合わせた女性が好きっぽい。文章としての美しさは言うべくもないが、その女性像についてはちょっと童貞くさくね?と思わないこともない。ちなみに彼、恋愛と結婚について『愛と婚姻』という随筆の中で語っているのでぜひ読んで欲しい。青空文庫で10ページくらいで読めるので。彼曰く「結婚が愛の大成というのは大きな間違いだ。結婚は社会の制度でしかなく愛や自由を制限してしまう。総括すれば社会に対する義務」(なんとなくの要約)だそうだ。恋愛と結婚は別だと考えているあたり、何とも現実的というか身も蓋もないというか。だからこそ理想の恋愛、理想の異性への強い拘りがあるのかなと感じる。

 

 新年一冊目かつ複数の作品が収録された短編集ということで、久しぶりに真面目に読んで作品と向き合った感がある。割と疲れた。ただ自分の感想を言語化することを念頭において読むと、普段ならただ読み流すはずの所でもセンサーが反応するというのか、しっかりと流れを意識して読むことができた。何となく創作作品を楽しむのもそれはそれで面白いが、たまにはこうやってちゃんと読み込むのも新鮮である。同じ短編集でも、作者が違うと様相が異なるのが興味深い。江戸川乱歩は探偵ものと怪奇ものでは全然読んだ時の印象や読了感が異なるが一貫してさらりと読める感じがする。それに対して泉鏡花は、雅文体の作品が混ざるということもあるが、内容自体は難しい物語でもないのにどこか不思議体験的な要素が頭に引っかかるような、若干の腑に落ちなさがある気がする。作者の世界観って、言葉回しの表現や物語の展開といった作風だけでなく、読んだ時の感じ方にまで表れるのだなと改めて思った。この辺りはやはり受け取り手の個人差があるとは言え。

 短編集ということで鏡花の色々な短編に触れ、短いながらも不思議にきらめく世界を感じられて贅沢だった。泉鏡花の文章がとても美しいという話は延々としていたが、『山月記』で有名な中島敦も鏡花の文章について「日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ」と言っている。なんというか、彼の文章は豪華絢爛な振袖のような、派手で華美ながら緻密に織られた重厚な布のような印象を受ける。鯱張った中身のない文章のようで最初は読みにくいかもしれないが、慣れるとひたすら日本語の美しさとそれの織りなす幻想的な風景に目が奪われる。読了に時間はかかったが、とても面白かった。

『金色夜叉』感想

 国語の授業で覚えさせられた文学作品の一つ、尾崎紅葉金色夜叉』を読んだ。特に理由はなくて、擬古文のいかにも文学っぽい文学を読みたかっただけなのだけど、面白いなあと。青空文庫に上がっているし手軽なのでそれで読んだのだが、すぐに言葉を検索できるのとか思いの外便利だった。

 

 『金色夜叉』と言えば有名なのは、主人公貫一が許嫁の宮を蹴り飛ばして言う言葉「必ず来年の今夜の月を僕の涙で曇らしてみせる」(うろ覚え)だけども、この場面を文章で読んだ時はこれが噂の!!!とテンションぶち上がった。

 主人公の学生、間貫一は、扶養してくれている鴫沢家の娘である宮と将来結婚の約束をしていた。ある日銀行家の息子の富山が宮に一目惚れし、結婚を申し込む。貫一と宮は互いに好き合っていたが、宮は若さゆえ、また両親の勧めからその結婚を断らなかった。宮の裏切りに絶望した貫一は宮を手酷く罵り、生涯その恨みを抱きながら生きることを決意して高利貸しとなった。宮の方では結局富山と結婚するも、いくら豊かでも愛のない生活に幸せを感じることができず、貫一でなく富山を選んだことを後悔し続ける。

 あらすじ的にはこんなような内容で、文章の堅さの割にストーリーは読みやすいし感情描写も丁寧な分意外とすらすら読めたなという印象だった。

 貫一はいいように言えば宮を心底愛していたがゆえその裏切りを恨み続ける一途な男なのだが、若かりし日の初恋のために人生を棒に振るあたりなんとも童貞らしいというか粘着質というか、恋愛苦手そうな男のダメな所集めましたみたいなやつ。なぜその恨みを原動力にして高利貸しになることへと向けてしまったんだろうか。なんていうか男らしくねえ。宮は宮で、貫一のことが確かに好きではあるんだけど自分が美人なことを自覚しているので物足りなさを覚えている所に、社会的ステータスの高い富山から求婚され満更でもないという、若さから後々後悔する気持ちに流されてしまう意志の弱い所がある。富山は銀行家の息子で、金に物言わす系な上結婚後の宮の様子に楽観的なところがぼんくら。

 丁寧な情景描写や感情の表現が風雅で美しい分、登場人物の俗っぽさが際立っていて引き込まれた。個人的に文章を読む時って大体、その文体や表現の癖?から物語を汲むと同時にこういうことを書く作者ってどんな性格だろうかというメタ的な視点も抱くのだが、尾崎紅葉の文章は、もうさすが頭の良い人がめちゃくちゃ豊かな語彙を以てこの愚かな俗世を飾り立ててみたって感じ。擬古文体で艶麗な言葉が並ぶのに、恋愛を巡っての男女の機微が生々しく描かれている。色んな意味でエグい。泉鏡花が好きなんだけど、その師って感じする。私にはすごく刺さった。

 明治文学の文章って、伝統的な日本語と近代以降の口語、外来語の混ざり合いが、レトロな雰囲気を醸し出しつつも高尚な感じで良いよね。どんだけ本読んで頭がよかったらこんな文章が書けるだろうと思う。個人的優勝文は「時計は秒刻を刻みぬ。」(うろ覚え)です。秒刻にチクタクとふりがながあっておっしゃれ〜〜と仰天した。

 尾崎紅葉が執筆中病死したので途中で終わってしまうのだが、めちゃくちゃ良いところで終わるせいで続けよとやり場のない怒りが生じる。貫一と宮がどうなるのか、せめて結末の構想だけでも知りたかった。

『名探偵に薔薇を』感想

 積読していた城平京氏の『名探偵に薔薇を』を読んだ。まだ読書記録に書いていないが、以前読んだのとは異なる江戸川乱歩氏の短編作品集を読んだので、なんとなく探偵小説への志向性があった。あらすじを見るとメルヘン小人地獄というファンシー物騒な文字が出てきて、これが推理ものという理路整然とした文構成の中でどう作用するのかなと気になり手に取った。推理小説のネタバレ注意なので、まだ読んでない人はこれを読まないで欲しい。

 

 小説は第一部『メルヘン小人地獄』と第二部『毒杯パズル』の二部構成で、前半はなんとも大掛かりでややもすれば芝居がかった王道的展開の推理もの、後半は前半の大仰なストーリーに反して細やかな感情の揺れ動きや因循、逡巡を描いた、真相に辿り着くまで二転三転する物語だ。

 『メルヘン小人地獄』と題された童話が各種メディアに届いた。小人を材料とした完璧に近い毒薬を作るマッドな博士と、それに憎悪を抱く小人たち。しかし博士はぽっくり死んじゃうので小人たちは復讐心を晴らすために3人の人間を惨たらしく殺しましたとさ。という意味の分からない文章。メディアも悪戯かと放置していたが、その出来事からしばらく経ったある日出版会社社長の妻であった藤田恵子が、童話通りの無惨な殺され方をしたということで事件になる。ストーリーの視点は、その社長夫妻の一人娘・鈴花に勉強を教える大学院生の家庭教師である三橋である。明朗闊達な妻が殺され、人の良さそうな、あるいは気弱と言い換えても良いような社長・藤田克人は憔悴し家事や生活もままならなくなる。それを見かねた三橋が藤田家で鈴花の面倒を見る。というのが始まりだ。

 作品の全容を踏まえた感想になるので一回読んでから見てほしい。本当に、マジで。他人の、小説を読み展開をリアルに追う機会と楽しみを奪いたくないので。これはネタバレしたくない。どんな小説でもネタバレはダメ派なんだが、推理小説は特に、展開の推理を読者に考えさせたりある種の様式美を重んじる傾向があったりするので圧縮すると面白さが半減どころか一割にも満たないと思う。

 

 自分の思考の整理のために、内容をがっつり全部要約する。ネタバレ断固反対派と言いつつ物語の筋を全部書き連ねている。面白いなと思ったので自分の中で一つ一つ筋を追いながら考えたかったのだが感想より要約が大半を占めている。まだ本書を読んでいない人はここから見ないでほしいし、既に読んだ人は要約は読み飛ばした方がいい。

 

 

 第一部『メルヘン小人地獄』では、『メルヘン小人地獄』という童話と共に、その童話に出てくる小人を材料とした完全に近い毒薬『小人地獄』が実在し鍵を握る。恵子は『小人地獄』で殺されたのではないが、彼女の死に様がメディアに送られた『メルヘン小人地獄』と同じものであったことから、30幾年前に迷宮入りした事件で名前の上がった毒薬『小人地獄』の存在も掘り返される。『メルヘン小人地獄』では3人の人間が無惨に死ぬ。2人目、3人目の被害者が出る可能性や毒薬との関連についての進退が注目される。

 夫である社長の克人は妻の死後憔悴しきっているが、娘を支えてくれる家庭教師三橋を頼りにし妻の残した手紙に書かれたことについて相談する。正しい致死量を用いれば1時間で心臓発作としか判断されない症状が出て死に至る、死後検知されることもない摩訶不思議な毒薬『小人地獄』。これを作ったのが恵子の父であり、実物をずっと保存している、さらにそれで自分の母を殺したのだという衝撃の告白を述べた手紙だ。『小人地獄』は33年前にその父が何者かに殺されたことで警察の知る所となったが、その効能から様々な権力者との繋がりがあり結局事件解決の前に揉み消されたのだ。堕胎されたり捨てられたりした赤子を腐敗させその脳味噌を原材料にして作られるその毒薬の現場があまりに惨たらしく、揉み消されはしたが関わった人間には強く印象づいたものだったことからメディアでも古参の人間なら知っている。そして現在同名の童話が送られ、世間には広まっていないがメディア関係者の間では注目の的になっている。

 克人は恵子のことを愛している。童話に擬えて逆さ吊りにされ数多切りつけられた結果失血死した恵子に対し世間では同情的な目が向けられているが、それがあまりに非人道的な毒薬を作った人間の子でありまた母親殺しをしているとなれば一転、中傷の嵐になるだろう。死んだ恵子のためにも病気がちな娘の心の安寧のためにもそっとしておいてほしい、との気持ちから克人はこの手紙の事を警察に対し秘匿したいと三橋に相談する。警察の側では、恵子を殺した犯人捜査や毒薬との関連性から、何か隠しているらしい克人の情報提供を求めている。

 克人と三橋が結託する一方で第2の殺人が起こる。アパートの浴槽で、童話の通りグツグツと煮殺され原形を留めていない。被害者は国見と言い、なんと恵子の父の元で毒薬製造の助手をしていた男の1人であった。恵子の父の死後はサラリーマンとして生きていたが株に手を出し落ちぶれたらしい男が殺された。恵子の手紙では、父には手伝いが2人おり、1人は助手で1人は毒薬の被験者であった、2人は父に弱みでも握られていたのか酷く精神が衰弱しながらも手伝いをさせられており、父が毒薬づくりをする際娘である恵子のためだと言っていたため、自分を殺すのはそのどちらかだろうということであった。そしてその1人が死んだため、容疑はもう1人の鶴田という男にかけられた。

 童話での3人目の犠牲者は学校帰り女の子であったことから、藤田家の一人娘・鈴花が危険であると見解が出た。ブローカーであり、立て続けに仕事を失敗したため金のない鶴田は、藤田家に現れ娘のために3000万円融資しろと脅迫してくる。鶴田は1人目の被害者である恵子が殺された際に警察のお世話になっていたことで完全なアリバイが証明されていた。状況としては完全に鶴田が犯人としか思われないがそれが明白な上で警察の手を逃れさらに仕事の資金を得ること、また事前にメディアに送った『メルヘン小人地獄』が報道されて知る人ぞ知る毒薬が認知され売買ルートができることで、裏社会で再び名をあげ生きていけるのだと鶴田は語る。刑事相手に毅然とした態度をとっていた三橋もこれには進退窮まり、後輩であり名探偵と呼ばれる瀬川みゆきに連絡をとる。

 果たして瀬川は、なんとこの事件を2日で解決してしまった。実際の所、2人目の被害者であった恵子父の助手・国見が企てたこの計画を、その実行犯であった鶴田が乗っ取ったことで不可解な事件になっていた。本来なら2人目の犠牲者となるのは社長である藤田克人、3人目は娘の鈴花であるはずだった。警察より先にこの事件の真相を暴いたために恵子の手紙を警察に渡さないで済み、藤田家は一時は世間を賑わせたが恵子はゴシップの種にならずに下火になった。恵子が保持していた毒薬『小人地獄』も警察に押収されることなく藤田家に残っている。

 

 まず第一部を読んで思ったこと。三橋がちょっとなんかキモい。長身でお人好し、好青年で勉強もできる鋭い人物として描かれているにも関わらず。何だろうそこはかとないこのキモさ。そもそも中学生の女の子の家庭教師をしている時点でなんだかこう、匂ってくるものがあるのだが、凄惨な事件に巻き込まれた仕事先にも関わらずその家庭の家事をして秘密を共有し、さらに警察や怪しい人物に対して冷静な姿勢を保つあたり、お人好しではすまされない違和感を抱く。こいつサイコパスすぎやしないか?と。いや一般的な意味でのサイコパスみたいな、他人の気持ちが分からないとか共感能力がないとかそういうのではないが、なんだろううーん。文章内での表現ではパッとしないな、と。なんというか、一大学院生に対して設定が過多すぎる感がある。それ以外にも、あまりに凄惨な童話とそれに準えた惨殺事件、ほとんど完全な毒薬、異様に冷静なキャラ、2日で時間を解決する名探偵。名探偵には何やら重い過去があるらしい匂わせ。俺の考えた最強の探偵!の気配を感じる。文章の表現としても、装飾性が高いというのか、仰々しくしゃちほこばった言葉回しでちょっとくどい。ラノベやネット小説の気配がうっすら感じられるが、そういう所に目を瞑ればさすがにストーリー展開や情報の開示の仕方あたりはミステリらしく面白いななんて思った。この点は何と言ったか、有名な賞の候補作に選ばれるだけあるなといった印象。個人的には国見の犯罪計画を鶴田が乗っ取った辺りとかめちゃくちゃワクワクした。

 

 第二部『毒杯パズル』。第一部から2年後の物語。家庭教師だった三橋は大学院卒業後、藤田克人社長の出版会社に就職し、克人は恋愛の末に後妻の恭子を得る。娘の鈴花の家庭教師として三橋の後輩である山中冬美が雇われており、名探偵瀬川は放浪の旅に出ている。事件を経て克人の信頼を獲得した三橋は家庭教師を後輩に譲った今でも藤田家と深い交流があり、団欒のお茶の時間に冬美とともに参加していた。事件はこのお茶の時間、三橋、克人、恭子、鈴花、冬美、そして家政婦の房枝がいた場で起こる。冬美がお茶を飲んだ際に苦しんで死んでしまった。警察の捜査により、冬美の死因が『小人地獄』であったこと、紅茶のポットから大量の『小人地獄』が検出され、全員のカップの紅茶も同様であることが判明する。

 『小人地獄』の実在を知っているのはこの家庭の人間のみである。ほとんど完全な毒薬である『小人地獄』にはしかし、致死量を大幅に超える量を服用しようとすると苦みのあまり飲み込めないため死に至らないという欠点があった。致死量を守って使う分には完全犯罪になる毒薬を大量に用いる不可解さ、苦くて飲めたものではない紅茶を何故か飲み込んで死んだ冬美、毒薬を知っている人間には人を殺す動機がないこと。これらがこの事件の謎である。

 三橋を介して克人が名探偵瀬川にこの事件解決を依頼する。瀬川はこの事件についてまず次のように推理する。後妻恭子は克人との恋愛の末結婚に至り、前妻の娘の鈴花にも愛情を抱いていたが、体調を崩しがちな娘を大層気遣う旦那が自分を愛していないのではないかと疑った。そして克人から『小人地獄』の存在について教えられておりそれが克人の部屋にあると知った恭子は、魔が差しそれを盗んで鈴花のティーカップに少量塗りつけた。恭子が克人の部屋から後ろめたそうに出てきた所を目撃していた鈴花は、恭子が自身に複雑な思いを抱いていること、他方彼女が自身や克人を本当に愛していることも知っていたため、ポットに『小人地獄』を全て投入した。そうすることで恭子が自身を殺そうとしたことを隠そうとした。毒薬は致死量を大きく上回ると苦みで飲み込めないことを知っていたし、お茶の時間に出る面々も把握しているため誰も死なないと思っていた。しかし冬美は2年前の事件の部外者であり、また彼女は周囲には秘密にしていたが無味覚症であった。運悪くそんな彼女が一番最初に口をつけてしまったために不可解な事件となってしまった。幼気な少女が後妻を思うあまりに起こった不運な殺人と瀬川は判断し、自首を勧めた。鈴花の行動を知った克人、恭子、三橋は、これは不慮の事故であると鈴花を庇い立てする。

 しかし瀬川の元に、冬美の妹を名乗る人物から電話がかかってきて話したいことがあると言う。曰く、姉の冬美は恋愛に関して粘着質な所があり、本人の言う恋人に対し脅迫していた。冬美は家庭教師をしていた生徒が『小人地獄』を持っているとこぼしたことからそれをおそらく盗んでおり、自分と付き合わなければ恋人の好きな人物であるその生徒を毒薬で殺すと脅したのだ。酔っ払った際に姉がそう言っていたらしい。言わずもがなその生徒は鈴花であり、そしてその鈴花を好いていたのは三橋であったのだ。かくして第二の推理は次のようになる。冷静で聡い所のあった三橋は、脅されて冬美と付き合っていたが冬美を疎ましく思っていた。ある日恭子が克人の部屋から後ろめたそうに出るのを見た三橋は、彼女が鈴花に対し殺意を抱いていると嘘の犯罪計画を教える。純真な鈴花は恭子の複雑な思いを知っており、また『小人地獄』の特徴も分かっていたため三橋の口車に乗せられて、恭子の殺人未遂を隠すためにポットに毒薬を仕込んだ。三橋は曲がりなりにも恋人である冬美の無味覚症について知っており、当日は冬美が最初に口をつけるように会話なりで誘導した。

 実際には恭子は殺意は抱いたものの『小人地獄』を盗みも鈴花のカップへ塗りつけもしなかった、しかしそれでは罪がバレた時に、恭子を庇うために人を殺してしまった鈴花の罪が重くなってしまう。このことを三橋に教えられた恭子は、嘘の証言をすることを誓う。鈴花は三橋に恭子の偽の殺人計画を教えられはしたが、後妻を庇ったという達成感や自身で毒薬を仕込んだという責任の所在から、警察に露呈したとしても三橋の名前は出さないだろう。こうして三橋の完全犯罪が成立することになる。三橋には、この件で邪魔者を排除し、また一方で犯罪を犯した鈴花を庇うことで藤田家の弱みを握り鈴花を完全に己のものにするという目的があった。愛する人を守ると言いながらその実、犯罪の実行犯に仕立て上げる三橋は間違っていると、瀬川は糾弾する。

 鈴花は、瀬川がかつて推理によってその心を壊してしまった少女に酷似していた。昔、川で事故死したとされた男子は実は少女に突き落とされたのだが、それは男子が少女に対して暴行を働こうとしたための正当防衛であった。瀬川は事故死の真相を明らかにはしたが少女の正当防衛を立証することができず、結果としてその少女は殺人犯として誹謗中傷に晒されてしまった。そしてその少女・夕奈は瀬川の妹であった。真実を暴くことは時として残酷な現実を突きつけることになるのだと思いながら、しかしこの名探偵としての真実追求をやめてはその少女が意味もなく心を壊されたことになってしまう。少女への罪滅ぼしとして名探偵を続けてきた瀬川は、彼女に似ている鈴花が三橋によって犯罪者にさせられるのを許せなかった。

 鈴花へ自首を勧めてから数日経ち警察と会った瀬川は、冬美の死に続き妹が事故にあったと聞く。妹を名乗って話をした人物は実は冬美の妹ではなかったことが判明した。混乱した瀬川は藤田家を訪れたが、鈴花が救急搬送されたと聞いて慌てて病院へ向かう。そこで彼女が脳腫瘍であったことを聞く。瀬川と会話した鈴花は、懺悔の言葉と共に『小人地獄』を服用したことを告げそのまま亡くなった。

 真相は、恭子の殺人未遂を鈴花が庇った不慮の事故でも、三橋の陰謀による完全犯罪でもなかった。2年前の『メルヘン小人地獄』事件を颯爽と解決した名探偵に恋をした幼い少女が、脳腫瘍で死ぬ前に、行方も知れぬ名探偵と再び会いたいがために考えなしに行った悪戯だったのだ。鈴花は被害者を出さないために自分がまず最初に口をつけて毒が入っていると言うつもりだった。そして過去に『メルヘン小人地獄』事件が起こった家庭で『小人地獄』が見つかるのは世間的にセンセーショナルでまた名探偵が来てくれるだろうと考えた。しかし不運により人が死んでしまった。恋心から殺人をしてしまった罪を瀬川に知られたくないと、鈴花が三橋に相談した結果、家族総出で協力し二重三重にもベールを重ねて隠された真実である。そして恋しい瀬川に詰められた鈴花は自ら死を選んだ。

 

 えっ。えっっっ…アクロバティックリリーじゃん…が読了直後の感想。がっつり百合。そして三橋、百合に挟まるサイコパスヤンデレ野郎。罪と業が深すぎる。

 第一部の話どこいったん?くらい様相が異なる。第一部は設定が壮大ながらも仰々しめの王道推理小説、『小人地獄』は依然実在するものの一応犯人も捕まり藤田家には平穏が訪れ大団円といった感じだったのに。三橋若干おかしくない?くらいの違和感残すだけだったのに。第二部では前半の残虐殺人要素?何それ知りませんがと言わんばかりの緻密で繊細な逡巡の描写とどんでん返しに次ぐどんでん返し。情緒がぶち壊れる。思わず衝動のままにダラダラ冗長に感情垂れ流してしまうレベル。後半があまりに強すぎる。

 本の宣伝帯に「第一部だけで読むのをやめないで」と書かれるのが納得の第二部。第二部読み始めた時のなんとなくのメタ読みと第一部のミスリードで、一番儚い犯罪しそうにない鈴花がやらかすかやたら冷静で様子がおかしかったサイコパス三橋がついに犯罪の側にいくかだろ?と予想してたら、それを準えるようにまず鈴花、そして三橋のヤンデレ故の陰謀と思いきやまさかの鈴花の細やかな悪戯だった。これは見事なミスリード。いや恋心で安易に毒薬使うな、お前そういう所血の繋がった母親似だなと。思い込み激しそうな所とか方向は違えど世間知らずな所とか。

 あと三橋。三橋の陰謀については否定されていたけど懸想は否定されてなかったような気がする。やっぱり百合に挟まるサイコパスヤンデレ野郎なのよ。家庭教師をしていた生徒が恋に焦がれて人殺してしまったという相談をしてきたことに応じてシナリオを作るのも異常だし、それなりの事件を解いてきて今までほとんど失敗して来なかったらしい名探偵をこうも欺けるのもヤバい。頭がキレすぎる。しかもそのシナリオの犯人候補に鈴花と自分を持ってくる所。思考力と行動力の鬼でそれを一人の娘のためにフル活用できるの、ヤンデレだと思うんだけどどう?

 第二部の方では瀬川が真実究明に拘る理由が彼女の心情描写と共に精細に描かれているんだが、要約では私には言葉にしきれないと思って省いた。瀬川、生きていて何の楽しみももたずただ自分が壊してしまった妹への罪滅ぼしの念から真相を明かす名探偵であり続けているのに、第二部では三橋が都合良く見せたい所だけを見せられて真実の欠片もない推理をし、おそらく恋愛の範疇になかった同性から全く予期せぬ片思いされて、その結果の殺人を自分(への思い余った恋)のせいにされて挙げ句の果て自殺されるの、本当に救いがなさすぎると思った。「事件は、名探偵のために創られた」という作中の言葉。もうこれが使いたいがために小説書いただろ。

 瀬川の自由意志と自己責任への強い信念。個人的な研究の分野でやっているカントの自由意志論と近しい空気を感じる。お前は何も間違っていない、こうなることは仕方がなかった、どうしようもなかったんだと語る三橋に対して、因果だとか運命だとかそんなものの責任にするな、そんな安易な物語にするなと反論する瀬川。自らの意志で自らの行為を選択する自由の存在、その自由があるからこそ人間は責任を問うことができるという思想には強く共感する。意志の自由がなければ責任を問うことも、罪を償わせることもできない。なぜならそれが最初から決定されていてどうしようもなかったことだったとするなら、その人は文字通りどうしようもないのだからそれを咎めるのは不当であるためだ。責任というのは他行為可能性がなければ無用の長物だ。例えば殺人をした人はその時同時に殺人をしないという選択肢も持っており、それにも関わらず自分の意志で殺人をしたというその選択にこそ責任が問われるべきなのだ。そしてその責任を問われた際に自死を選んでしまった鈴花を、心が弱いのだと断ずる瀬川。自身が追及した結果心を壊した夕奈や自殺した鈴花に対して弱いものは淘汰されると考える瀬川はとても冷淡に見えるが同時に人間的な弱さを抱えている。人間の自由意志と自己責任を突き詰めると、環境や生得的な要素に本人のどうしようもないことがあったとしてもあらゆる不幸は本人の努力と自由な選択によって打開可能なものとなるはずだから、弱いのはその人自身の責任だということになる。瀬川自身、真実の究明によって夕奈と鈴花を死に追いやったのは、真実究明をやらないではいられないという瀬川の感情であり責任でもあると考えているだろう。瀬川が彼女らの心の弱かったことも原因であると考えているのは、そう考えないと瀬川の心が潰れるからだ。そういう弱さを抱えるからこそ、自由意志を唱えながら他者からの救いの手を望んでしまうのだろう。難儀な性格だなあ。

 

 ともあれ、後半が衝撃的だっただけに『メルヘン小人地獄』のわざとらしさというのか、作り物めいた雅文調の世界観が些か腑に落ちない感がある。腑に落ちないというか、前半と後半が断絶しているように見える。と思って解説を見たら元々『毒杯パズル』の構想が先にあって、その小説を書き直す際に新たに第一部を付け加えたらしい。感じた違和感はそういうことかと納得した。あと三橋が「実は鈴花の一人芝居で、それに協力してもらって誤魔化した」的なことを告白するシーン、これもちょっと無理筋じゃないかと思ったり。急展開すぎる。あれだけ緻密に策を弄しておいてそこが協力の一言で終わるの、最後を急いたように思う。

 ちなみにこの作者さん、『絶園のテンペスト』とか『虚構推理』とかの推理漫画の原作者らしい。良くも悪くもしっかり練って盛った設定、確かに漫画向きではあるなと感じた。

 個人的にはそれなりに面白かった。が、面白かった分多少の違和感がより強く出てしまったのかな。ストーリー展開のインパクトが大きいから読了感として印象に残るんだけど、なんかびみょい。なんというかびみょい。それにしてもこれで長編ミステリデビューは強い。

月の涙

 真珠が好きだ。

 艶々と滑らかな肌に光を受けて、僕の目へと幽玄の眩さを照り返している。あの無垢な月光にも似た清らかさ。

 それが彼女の短く揃えられた髪の隙間からチラリと垣間見えるその瞬間が、僕の心を捉えて離さない。

 いつから髪型を変えたのだろう、以前会ったのは久しく昔のことでその頃は嫋やかな射干玉の黒髪を背まで伸ばしていたのに。滅多な機会では会えない彼女がいつの間にか耳に穴を開けていたことも見慣れぬうちに、今度は髪までバッサリと切ってしまった。線香からあがる煙で烟ったその手は微かに震え、唇を噛み締めながらも、その目から涙が流れることはない。

 全身黒に身を包んだ彼女が、白皙のなよやかな指の先でまっすぐの髪を耳にかける。そうするとまんまるい白練の雫が耳元を飾り立てているのが見える。質素な容貌の中で、真珠の耳飾りが唯一艶やかに目を惹きつけるのだ。漆黒の紗幕からつるりとした光が零れ、肌が露わになる瞬間からは、何度見ても見慣れぬ色気が匂い立つ。

 耳元の球体は今にもポロリと滑り落ちてしまいそうで注視しないではいられないのだが、その裏には金属の針がついていて、珠を彼女の艶かしい耳へと刺し留めている。まろみを帯びた照りの強い人魚の涙の裏側に耳朶を貫く鋭さを隠しているその意外性。それがきっと、彼女の強さなのだろう。

 幻想的な極光の干渉色を伴って奥深い輝きを放つあの真珠も彼女も、永遠に僕のものにはならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

副題:初恋だった年上の従姉妹が未亡人になった童貞の独白。

『江戸川乱歩傑作選』感想

 しばらく勉強会の準備やらで集中して本を読む時間がなかった。ので新潮社から出ている『江戸川乱歩傑作選』をちまちま時間を見つけてのんびり読んでいて、やっと読み終わったので感想をあげることにする。

 なぜ江戸川乱歩氏かと言うと、友人から借りた本だったというのと、前に感想を書いた『死体を買う男』の作中作で氏が登場したので興味が湧いたからだ。あとは不肖ながら読書好きを名乗るなら、著名な作品は読んでおいた方が良いという思いも多少。

 

 この傑作選では『二銭銅貨』、『二癈人』、『D坂の殺人事件』、『心理実験』、『赤い部屋』、『屋根裏の散歩者』、『人間椅子』、『鏡地獄』、『芋虫』が収録されている。江戸川乱歩氏の初期の小説、探偵小説と怪奇趣味の小説を収めたものだ。空いた時間に読んでいたので全体の印象や読んだその瞬間の感想はもう風化してしまっている。だから、あんまり内容やあらすじについて語ってもしょうがない気がするし、随想だけ雑駁に書き述べたい。

 

 個人的に好きなのは『二癈人』、『鏡地獄』、『芋虫』だ。どちらかというと怪奇趣味の表れている小説の方が面白く読めた。『鏡地獄』は趣味から狂気に走る人間を側から見ている恐怖が、『芋虫』は自身が良いようにできる弱者への、気持ちの悪いけれどもどこか人間の内部に普遍的にあるような悪趣味が、短い物語ながらも巧妙に表現されている。『二癈人』は夢遊病と犯罪行為を主題とした二人の男の会話だ。普段意識はしていないけれども一度気づくと薄ら寒い心地になるような潜在意識、というものを表面化させて描き出すことにかけて、乱歩は非常に卓越しているのだなと嘆じた。

 他方、ミステリを読むのは好きだし物語の謎を解き進めるのは読書の醍醐味だと思うが、探偵小説の類に関しては、興味深くは読んだけれども鮮烈に心に刺さったかと言われると少し微妙である。

 なんというか、これは乱歩に限った話でなく、探偵小説に典型的な、洞察の鋭い探偵がドヤ顔で種明かしをするような展開ってなんとも言い難い不快感がないだろうか。謎が最大のメインで、その舞台装置としての犯行、犯人、被害者があって、作者の代弁者たる全てを見透す探偵がそれらについて滔々と語る、みたいな図式。探偵が何かを明らかにすることやそれを語る行為に、ある種の傲慢さを見てとってしまうと言えばいいだろうか。それは例えば探偵の「こんなに全てのことを明哲に理解している自分」という自我だったり、はたまたその背後にいる作者の「これだけ壮大なミステリを構築できる自分凄いだろう」的な思いだったり、そういった自信を想起し感じ取ってしまうのだ。たぶん作者はそんなことを表現したいとは思っていないし勝手に私が想像するだけで、それに対して苛々してしまうのは完全なる言いがかりなのだが。いや、こういう種明かしが探偵小説の佳境で快い所なんだと反論されることもある、しかしそれではあまり物語としての奥行きはないように思えてしまう。犯罪を犯す者の心理や経緯、成り行きは複雑に絡み合っているはずで、機械的なものではないだろと。

 あとこれも探偵小説の典型で、探偵に謎解きをされた後に犯人が激昂したり意気消沈したりして罪を認めるのも意味が分からない。完璧と思った自身の行為の穴を指摘されて取り乱すのは分かるのだが、探偵小説にあるような計画犯罪をする類の人間が、他人に何か言われた所で揺らぐような性格だろうかと邪推してしまう。一種の様式美のようで退屈である。

 

 乱歩から話が逸れてしまった、閑話休題。そういえば、先に『死体を買う男』に影響されて乱歩を読み始めたと書いたがその中に、本傑作選に入っている『屋根裏の散歩者』、これが元ネタになっていると思われる箇所があったのを思い出して嬉しくなった。「進研ゼミでやったとこだ!すらすら解ける!」現象である。

 以前友人と話したが、過去の文学作品の中には、歴史的に意義深いものでも、長い時間を経て洗練され多様化した現代の作品に慣れ親しんだ我々にはあっさりと物足りなく感じるようなものもあるように思う。おそらく私にとっての乱歩の探偵小説もその類で、だから江戸川乱歩を主人公とした現代小説は楽しめても本人の小説は多少味気なく感じたのだろう。まあ作風の違いも大いにあるだろうが。

 長年経っても称揚され続けるような作品も大いにあるけれども、それは何かしらある種の普遍性を感じさせる要素があるもので、探偵小説や推理小説、あるいはSFの分野についてはある程度その時代の技術の制約を受ける点では好みが大きく分かれる所かもしれない。

『死体を買う男』感想

 歌野晶午氏の『死体を買う男』という小説の読者感想。歌野氏の小説は二、三読んだことがあって、それで作者買いしたものだ。中学2年かそれくらいの時期だったろうか、『絶望ノート』を読んで大きな衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えている。『絶望ノート』の主人公が現代の少年だったことや他に読んだ作品も時間軸が現代のものだったことから、歌野氏が今作のような昭和の文学らしい文体でも書くということを寡聞にして知らず、まさに新たな発見という心地である。

 

 実は買った本の帯が大きいものであらすじが隠れていたので、タイトルと作者名だけで買って内容は全然知らない状態で読んだ。いきなり本の前書きから始まったがそこからもう作品なのだという所が面白い。内容としては作中作『白骨鬼』とそれを巡る現実の人間の物語という構図である。『白骨鬼』では江戸川乱歩萩原朔太郎を主人公として乱歩の出会った女装の青年の死に迫る。作中作ということを抜きにしてめちゃくちゃ面白かった。江戸川乱歩萩原朔太郎はじめ、所々に文学的素養が散りばめられていて、ミステリ好きやその分野の知識人には分かる小ネタが良い。残念ながら私にはそこまでの知識がないので元ネタに想いを馳せるくらいしかできなかったが、知っていたらもっと楽しめたのだろうなと思うと多少悔しい気持ちも湧いた。

 それは置いておいて、作中作が出てくる作品についてよく感じるのは、空想と現実との境目はどこかという疑問だ。『白骨鬼』は物語の中に生きる現実の人物の作品だが、やはり小説家が出てくると物語を書くとはどういうことかを考えさせられる。誰がどんな思い、どんな経緯でその話を書いたのか、真実はどうであるのか、その話が他者にどう受け取られるのか。『死体を買う男』は謎解きだけでなくこういったことを提示しているように思う。ただそれだけでなく、この作中作が現実の人間とどう繋がっていくのか、その点はミステリとしての面白さもある。歌野氏の作品に特徴的な何重にも重なるカラクリ、というのか展開というのか、それが作中作によって巧妙に仕掛けられていて、物語の終盤になるにつけ次々と明らかになっていくのは見ていて緊迫感とある種の気持ちよさを抱かせてくれる。

 

 一つだけ本当に自分で残念に思ったのは、歌野晶午という名前で本の購入を決断してしまったことだ。タイトルだけで買って読んでいたら、もっともっとこの作品のラストは衝撃的で心臓に響いたろうに、歌野晶午氏ならこの後は…という予想をしながら読んでしまった部分があった。読み終わった後で歌野氏らしいなと感じ納得できた所もあったので後悔はしていないんだけども、初見でこれを読んだ人の驚愕とはまた違うだろうと、それを純真に味わえなかったんじゃないかとそんな気持ちである。

 私がかつて読んで衝撃を受けた『絶望ノート』や今回のこの作品でも、歌野氏は必ず登場人物の現実、現在をとても強く意識している。彼の小説を読むといつも、ああ空想の人物でも生きているんだという実感を得る。作品では描かれない登場人物の今後、未来を、実在の人物に対してそうするかのように読者に想像させるのがあまりに上手いと思う。ミステリとしての謎やカラクリの仕込みは小説でしか有り得ないような、とても精巧に作り込まれたものであるのに、そういった物語の構造に対して登場人物は現実性を強く帯びている。歌野氏の作品は独特で面白いと思う。

 ちなみに感想を書くときは併せてあらすじも書くようにしているが、歌野氏の小説は何を書いてもネタバレになりそうでもう書かなくてもいいかなと思った。

『開かせていただき光栄です』感想

 以前買っていた積読皆川博子氏の『開かせていただき光栄です』を読んだ。元々買った理由といえば装丁の絵がなんとも綺麗だったという一目惚れで、裏表紙に書かれたあらすじが面白そうだった、というくらいだ。でも本買う時ってこれというものを買いに行くのでない限り直感で買うよね。読書の勘というのか、直感で買ったものは大体面白い気がする。いや、単に雑食なだけで何読んでも大体面白いと言うかもしれない。

 

 閑話休題。舞台は18世紀のイギリス。まだ外科手術や解剖の地位が低く、公権力よりも貴族社会の謀略が大いに幅を利かせていた頃。解剖教室で解剖について教える外科医バートン先生とその弟子たち5人は屍体解剖をしているのだが、ある日妊婦の屍体を解剖していると警察からのガサ入れが入った。屍体を隠してやりおおせ、再び屍体を隠し場所である暖炉から出そうとすると、そこから他に2体の屍体も発見された。それが誰の屍体なのか、なぜ解剖部屋に隠されていたのか、その屍体は自殺によるものか他殺によるものか……。バートンら解剖教室の一味とロンドンの治安を守る治安判事ジョンやその部下がこれらの謎に挑む。みたいな。

 

 あらすじを説明するとミステリ感が強いんだけども、読んでみると言葉選びは軽妙で情景描写豊か、でも英国を舞台にするだけあって少しシニカルというのか、ウィットに富んだ面もあってあまりミステリっぽくない。作者は幻想小説も書くらしいというのを作者紹介で知ったが、納得がいった。しかし読み進めていくとやっぱり本格ミステリだなと肌に感じる。話の展開はとても複雑だし、3つの屍体の謎はどれかが解明しそうになるとやっぱりこんがらがって分からなくなる。理解できたと思ったらまだ分からない部分が残されていて、微細なそれが重要なことは分かるんだけどもどう説明したら矛盾がないのかまでは至らない。屍体に関わる生きた人間も一筋縄ではどうにもならない。解決しようと奔走する治安判事ジョン氏の苦悩が我々読者としても身に沁みて共感できるという感じだ。事件が理路整然と解決される爽快感というのは全くない。個々の屍体が一つの暖炉から見つかったというその一点から全てが始まるのだけど、どこまで読んでも一向にそれぞれの屍体の謎が繋がる気配がなく、中盤で繋がったと思えばそれが実はどうも不自然で不可解だ、というような様相である。

 また近代イギリスの医療水準や法制度、警察の制度について、当時はフランス革命前のヨーロッパだから貴族社会が蔓延っていて賄賂や不正の温床であるという点で、現代の感覚を持ちながら読むと分かりにくい所が出てくる。でも、明らかに人道に悖る行為をしている人間を現状の法では裁くことができないというこの理不尽さへの悪感情や、そこから私刑を志す者の心境といったものは、この作品から現代を生きる私に強く訴えかける部分があるなとも思う。ごく少数ながら多くをもつ者と大多数の持たない者の不和、当時のイギリスの生活風景、生きた空気、そういう情景をこんなに生き生きと、しかも緻密なミステリとして描写してみせるのが本当にすごい。当時の作家が書いたのかと思うくらい。

 あまりネタバレになると申し訳ないので詳しくは書かないが、内容や描写もさることながらそれぞれの登場人物のキャラが立っていて読んでいて面白い。ミステリだと謎を解くのがメインでそのために人が登場している感があるというようなのも少なくないと個人的には感じるのだが、この作品ではバートン先生初め5人の弟子や、事件解決に関わる治安判事ジョン氏とその部下2人はそれぞれしっかりと個性があって会話がちゃんと会話らしくなっている、人間っぽさが随所に見られる。各々がなんとも愛嬌のあるキャラクター達だ。

 

 蜘蛛の巣のような、複雑で繊細なミステリというのが全体の感想である。もしかしたら、読むのが苦手な人には、謎が解けるまでの途中の描写や話が二転三転する所がややこしく読みづらいかもしれない。しかしこんなに完成度の高い時代小説のような雰囲気に本格ミステリというのは、他の本では中々に見つからないしこの小説を特別なものにしていると思うので、ぜひ読んでみて欲しい。このブログでは単純に読んだ本の記録として感想を残しているだけで人に読書を薦めるにはあまりに稚拙だから、同書に載せられている有栖川有栖氏の書評をぜひ見て欲しい気持ちになった。続編らしい『アルモニカ・ディアボリカ』も同時に購入したので、紅茶とスコーンでも傍に置いて読みたい。食欲減退するかもしれないけど。